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杓子を逃げしものや何

『ドラクエⅥ』の思い出とその楽曲『エーゲ海に船出して』について

1 オープニング

1-1 はじめにの前に

この記事は『ドラクエⅥ』のストーリーに関して、【そこそこのネタバレ】を含みます。

核心部には触れないように注意を払いましたが、自分で考察したい方は楽しみが削がれる可能性があります。また、筆者には音楽の素養がないため、だいぶテキトーなことを書いている可能性があります。ご注意願います。

1 オープニング
1-1 はじめにの前に
1-2 はじめに
2 『エーゲ海に船出して』を語る前に
2-1 ドラクエⅥについて
2-2 スルメ曲
2-3 再びドラクエⅥについて
3 『エーゲ海に船出して』本論
3-1 その印象
3-2 変幻する印象その一~船との出会い
3-3 変幻する印象その二~船の入手~
3-4 変幻する印象その三~再び海へ~
3-5 なぜ曲調が大きく変わるのか
4 エンディング~結論~
5 おまけという名の蛇足~曲名について~

1-2 はじめに

 作曲家すぎやまこういちの、というよりはドラクエ音楽の思い出を少しだけ語りたい。

 すぎやまこういちといえば『学生街の喫茶店』や『亜麻色の髪の乙女』など、昭和のヒットメーカーという実績があるが、平成生まれの私にとってはドラクエ音楽の生みの親という印象が強く、ドラクエに関わる以前の業績については失礼ながらさほど意識したことがない。その代わりといっては何ではあるが、ドラクエの楽曲については相当な頻度と愛着をもって聴いてきたつもりでいる。振り返れば、幼少期から現在に至るまでの20年以上に渡って、断続的ながらもドラクエに触れ続けている。Ⅴが初のドラクエ体験だった私は、時に過去作に遡りつつ、ドラクエの世界に浸り続けてきた。リメイク版を含めれば、2021年現在12作出ているナンバリングタイトルの内、大半のタイトルをプレイしてきたことになる(Ⅹだけは未だに触れられていない)。とはいえ、成人してからも新作を触り続けてはいるものの、「ドラクエの思い出」として呼び起こされるのは小学校から高校生頃までの光景だ。14インチのブラウン管テレビのスピーカーからはドラクエのBGMが流れ続けていた。あの頃の冒険の記憶は、すぎやまこういちが手掛けた楽曲とともに蘇る。多感な学齢期にすぎやまこういちの音楽に触れられたのは幸福だった。私には音楽のことはわからない。だが彼の音楽に胸を打たれ、励まされ、勇気づけられた夜は数知れない。私という人間の土台の少なからぬ部分は、すぎやまこういちの音楽によって形成されている。

 改めてドラクエの楽曲を思い出してみた。好きな楽曲は山ほどある。Ⅰのフィールド曲『広野を行く』、Ⅲのフィールド曲『冒険の旅』や空のテーマ『おおぞらをとぶ』、Ⅳの心踊る『街』、Ⅴの妖精の世界のワルツ曲『街角のメロディ』や戦闘曲のスライムレースアレンジ、Ⅵの激アツ戦闘曲『敢然と立ち向かう』、Ⅶの『うたげの広場』やユバールの村の『トゥーラの舞』、Ⅸの『酒場のポルカ』……とてもここには挙げきれない。ドラクエの音楽に思いをはせると、ありし日の冒険の思い出が私の心を暖かく膨らませる。勇敢な仲間たちと苦楽をともにした旅の記憶が蘇る。

 今、記事を書くに当たって、不思議と心に浮かんできた一曲がある。群を抜いて好き、というわけでもないその一曲は、しかし私にとって強烈な印象を与えた曲であることには間違いない。そして今回振り返ってみて、改めてドラクエ音楽の奥深さと、すぎやまこういちの思いに触れられたような気がする。その一曲について語り、その魅力を伝えたいと思う。それはドラクエⅥの海のテーマ楽曲、『エーゲ海に船出して』である。

2 『エーゲ海に船出して』を語る前に

2-1 ドラクエⅥについて

 この『エーゲ海に船出して』の魅力を語る前に、まずドラクエⅥについて説明したい。なぜならこの曲の魅力が、ドラクエⅥのゲームシステムやストーリーと密接に関連していると私は考えるからだ。

 『ドラゴンクエスト幻の大地』は1995年にSFCスーパーファミコン)用ソフトとして現在のスクウェア・エニックスの前身であるエニックスから発売されたRPGロールプレイングゲーム)である。その名の通りドラクエシリーズの六作目に当たる。プレイヤーは魔王を倒す勇者として、モニター上の二次元的平面世界に展開される広大な大陸や海を股にかけて冒険する、というゲームだ。

 ドラクエⅥのストーリーは、ドラクエシリーズの他のタイトルと比較しても一風変わった趣がある。不思議というか幻想的というか、知らない国のおとぎ話を一ページずつめくってゆくような、そんな名状しがたい手触りがある。真実を手につかんだと思った途端、握った拳の隙間から、つかんだはずの真実が霞のように消えてしまう。逃げ水を追い求める砂漠の旅人のように、私は真実を渇望する。だがそれに相反して、いつまでもこの物語を読み続けていたいという矛盾した願いをも抱え続ける。全貌を一語で表現するなら、蜃気楼、とでも言えるだろうか。善良なる勇者が邪悪なる魔王を討ち滅ぼす、簡明で一貫した筋書きの物語ではない。世界の真実と、自らの運命に確信が持てぬまま各地を放浪する心細さはⅥ以前のドラクエでは決して味わえず、かつそれ以降のドラクエでも未だに私は出会えていない。私は旅を続けながら、何度も自分に問いかける。私は何者か、これでよいのか。自問する私に音楽が寄り添う。『エーゲ海に船出して』は、そんな迷える冒険者の心を代弁するかのような響きの一曲だ。

2-2 スルメ曲

 『エーゲ海に船出して』は一言で言えば「スルメ曲」である。

 そもそもゲームのBGMというジャンル音楽がその他の音楽と大きく異なる点は、プレイヤーはそれを何度も何度も繰り返し聞き続けなければいけないというところにある。ゲームの音楽はゲームの進行に合わせて流される。システム上、プレイヤーが「いつ」「どこで」「どの楽曲を」聴くか、という自由は、基本的には存在しない。とは言えこの点はジャンルに依るところもあり、それができるゲームも多い。(代表的な所で言えばリズムゲームと呼ばれるジャンルはまさにそれで、プレイヤーが好きな音楽を選択するためのゲームとすら言える。有名タイトルでは『太鼓の達人』などがある。その他、アクション・格闘・シューティング・レース等のジャンルでも、ゲームの仕様によっては比較的自由に楽曲を変更できるタイトルもある)。

 ドラクエⅥはそうではなく、その他の多くのRPGと同じく、楽曲に関してはプレイヤー側に選択権はない。陸地を移動しているときは陸地専用の楽曲が流れ、街や村を散策する際にはそれら専用の楽曲が流れる。魔物が巣くう洞窟や迷宮ではそれら専用の楽曲が流れ、戦闘時には戦闘用の楽曲が流れる。基本的にはシチュエーションひとつにつき、単一の楽曲が対応する。ゲーム開始からクリアまでに要するプレイ時間を20時間と仮定すれば、プレイヤーが勇者を海に出せば『エーゲ海に船出して』がスピーカーから流れてくるという事態が20時間にわたって発生する。それでも聴き飽きない絶妙なバランスを有しているのが、すぎやまこういちの音楽の魅力であり、『エーゲ海に船出して』のすごさである。

2-3 再びドラクエⅥについて

 さて、『エーゲ海に船出して』がすごいのは聴き飽きないだけではない。印象が変わるのだ。プレイヤーは、ゲームの進行によって、この曲に対して抱く印象を変化させてゆく。そんな力を秘めている。この奥深さにこそ、この曲の真価があると私は考えている。

 そういうわけで『エーゲ海に船出して』について語る前に、まずはドラクエⅥのストーリーを知ってもらいたい。長くなってしまうが、ドラクエⅥの序盤のストーリーを、核心に触れない程度に、私なりに説明しておきたい。

 ドラクエⅥの物語はいきなりクライマックスから始まる。夜である。三人の勇士が焚き火を囲み、来る戦いに思いをはせている。勇士の一人が、主人公、つまりあなたである。三人の勇士は魔王が棲まう城に乗り込み、世界の命運をかけて決戦を挑む。だが魔王の力は想像よりもはるかに強く、三人は手も足も出ずに敗北してしまう。「おろか者め! 石となり 永遠の時を 悔やむが よい!」魔王はそう叫ぶと、三人の勇士を一人ずつ消滅させてゆく。

 次の瞬間、あなたはベッドから飛び起きる。というよりは、勢い余って頭から転げ落ちる。そんな様子に気づき、妹が駆け寄ってくる。心配し、半ばあきれて笑う妹に見送られ、あなたは扉を開けて家の外に出る。途端に差し込んでくる朝日のまぶしさに、あなたは思わず手をかざす。恐る恐るまぶたを開くと、眼前には穏やかな山村の風景が広がっている。あなたは小鳥のさえずりを耳にしながら、妹に言われたことを思い出す。そうだ、村祭りの件で村長に呼ばれていたんだったっけ。

 あなたは村長の命を受けて、山のふもとの町におつかいに出かける。村祭りで使う道具を買いにゆくのだ。町にたどり着くと、あなたが会わなければならない人物はどこかで道草を食っているのか家に居ない。目的の人物を探すため、西の森に向かったあなたはそこで信じられない光景を目の当たりにする。巨大な穴。地面があるべき場所に、巨大な穴が開いている。巨大な穴は、大地を貫通し、その先の景色を見せている。薄雲を透かした向こう側には、広大な海と大地が広がっていた。まるで世界がもうひとつ別に存在するかのように――というお話。

 

 ひとまず以上が序盤のストーリーだ。

 ドラクエの主人公はゲームシステム上、基本的にはほとんど何も喋らない。他人からの問いかけに対して「はい」か「いいえ」かを返答するだけで、主人公が自ら雄弁にセリフを語るということはない。主人公の思考や感情が示される場合があったとしても、例えば「なに、~~だって? そんなことはないだろう」とか「え、~~? それは良い考えね」とか、他人のセリフを介して間接的に示されるに過ぎない。主人公は決して「はい」か「いいえ」の二言しか発話できない訳ではなく、ゲーム内世界の住人には主人公のセリフが音声として聞こえているであろうものの、ゲームシステムの仕様上、プレイヤーの目には「はい」か「いいえ」しか発話できない人物のように見えるだけである。主人公のこの仕様はナンバリングタイトルを通じてシリーズ共通の特徴であり、プレイヤーが主人公に自己投影しやすくするための工夫であるとされている。もちろん一口に主人公といってもタイトルごとに舞台設定や境遇が異なるため、狭義の個性は持ち合わせているが、他の登場キャラと較べればはるかに薄味で、無個性の人物としての印象が強い。ドラクエの主人公は「透明な存在」といえよう。

 しかしながらこのⅥに関しては他のタイトルと比較しても、主人公のその透明性が、とりわけ序中盤は極めて強い。

 主人公の透明性を演出するに当たっては、グラフィック面における当時の技術的な制約も一役買っている。主人公を含む登場キャラクターの歩行グラフィックは目の粗いドット絵で構成されており、表情も仕草も不明瞭のまま変化しない。そのためプレイヤーがキャラクターの感情を、キャラクターの表情から推察することはできない。

 自分の考えを語らず、表情もうかがえない主人公の思考は、プレイヤー自身が与えることになる。主人公が何を思い、考えているのかは、プレイヤーの想像次第で決まる。百人のプレイヤーがいれば、考えや物の見方が異なる百人の主人公が誕生する。

 喋らず、無表情の主人公は「ドット絵のドラクエ」全般に共通する特徴だが、Ⅵはそれに加えてストーリー面における大きな特徴がある。

 ストーリーの解釈をプレイヤーに迫る、という特徴である。

 ストーリーに解釈の余地がある、などという生やさしいものではない。悩め! 考えろ! と迫ってくるのだ。

 先ほど序盤のストーリーを説明したが、Ⅵの物語は「夢オチ」から幕を開ける。魔王との決戦は、寝ぼけた主人公が見ていた夢だった、という導入から始まる。だがプレイヤーはそれを素直に飲み込む訳にはいかない。あれは本当に夢オチなのか? と疑うことからゲームが始まる。否、始めさせられるのだ。

 

 そのように考えればⅥは、プレイヤー側からの物語への積極的な参入を強く要求する、非常に個性が強いタイトルとなっている。言い換えれば、妄想好きなプレイヤーほど楽しめるゲームとなっている。

 

 先ほど序盤のストーリーを説明したが、あれは私なりに脚色を加えた箇所がいくつもあり、私の妄想がすでに盛り込まれている。もちろん、ひとつの見方に過ぎない。「何が起きたか」ということは比較的に忠実に押さえているはずだが、「それをどのように捉えたか」という主人公の視点は完全に私の解釈による。特に二段落目の、

 

 次の瞬間、あなたはベッドから飛び起きる。というよりは、勢い余って頭から転げ落ちる。そんな様子に気づき、妹が駆け寄ってくる。心配し、半ばあきれて笑う妹に見送られ、あなたは扉を開けて家の外に出る。途端に差し込んでくる朝日のまぶしさに、あなたは思わず手をかざす。恐る恐るまぶたを開くと、眼前には穏やかな山村の風景が広がっている。あなたは小鳥のさえずりを耳にしながら、妹に言われたことを思い出す。そうだ、村祭りの件で村長に呼ばれていたんだったっけ。

という箇所は私見が盛り盛りである。つまり、この主人公は「魔王との決戦は夢だったと思っている、素直な主人公」だ。

 しかし別の見方もできる。

 「魔王との決戦」は本当にただの夢か。過去の記憶か。予知夢か。現実か。あるいはまた別の何かか。プレイヤーは疑う。だが主人公は喋らない。主人公が「魔王との決戦」をどのように捉えているのか、その思考はプレイヤーに示されない。ゆえにプレイヤーは、主人公に思考を与えなければならない。

 主人公に思考を与えることは、主人公の人格を考えることにつながる。「魔王との決戦」と単なる夢と思うような人物ならば、この次の場面では他のキャラとどんな会話をするだろうか? 理解しようと考えることにつながってゆく。

 「魔王との決戦」が夢だとすれば、なぜあんな夢を見たのか?

 「魔王との決戦」が現実の出来事ならば、主人公は今、どういう状態なのか?

 プレイヤー自身の捉え方によって主人公から見える世界の模様は大きく変わる。プレイヤーは、主人公について何度もくり返し問い直す。主人公について想像する内に、プレイヤー自身の思考を問われていることに気づく。プレイヤーと主人公は融合し、プレイヤーはいつの間にか足元の不確かな旅路に立たされていることに気づく。


 以上、まとめると、目の粗いドット絵というグラフィック技術上の制約までをも逆手に取り、喋らない主人公というドラクエ特有のゲームシステムまでをも活用して、プレイヤーが主人公に自己を反映させるべくストーリー展開が設計されている。これがⅥの序盤の特徴と言える。

3 『エーゲ海に船出して』本論

3-1 その印象

 前置きが長くなったが、『エーゲ海に船出して』に話を戻そう。

 ではどんな曲か。

 これがなんとも、もの悲しいのだ。

 もの悲しい、という言葉自体は初回プレイ時には知らなかったが、第一印象を今から振り返ればこの言葉がしっくり来る。

 主旋律を奏でる笛の音は高く澄んでいながらも、マイナー調で展開する前半部の曲調は重々しい。曇り空の航路を時折、ハープの調べが儚げに通り抜ける。

 ドラクエⅥにおける海上の曲はこの一曲だけで、つまりはこれが海のテーマソングである。初めて聴いたときは「なんでこんな曲を?」と腑に落ちなかった。素人考えでは、もっと違う作りにしてもよかったように思われる。例えばもっと涼しげに、吹きわたる潮風に身を任せる心地よさ、そういったものを感じさせるさわやかさを全面に押し出してもよかったように思われる。あるいは未知との遭遇に胸を膨らませる期待感や、打倒魔王を掲げて大洋にこぎ出す勇壮さをイメージさせる選択肢もあったはずだ。

 しかし作曲家はそうしなかった。

 なぜか。

 すぎやまこういちが、作曲に当たってゲーム制作サイドからどのような指示を受けていたのかは私はわからない。シナリオをある程度読んだ上で作曲したのか、ドラクエⅥ全体に通底する主題を伝えられた上で想像を膨らませ作曲家なりに解釈したのか、それとももっと踏み込んだ具体的な注文があったのか。どこかのインタビューで答えているのかもしれないが、私は知らない。作曲の過程はわからないが、結果としてはドラクエⅥを象徴する素晴らしい海のテーマソングが誕生した。

 ドラクエⅥの海は、これだ。

 もの悲しく不安を想起させるメロディーこそが、すぎやまこういちの回答だった。

 ただしこの曲は、それだけでは終わらない。短い楽曲でありながらも展開は起伏に富み、そしてついに後半部の終盤に至ってメジャー進行へと転調し、ガラリと印象を変える。リズムもテンポも、それまでとは打って変わって明るく変わる。笛の音は軽く朗らかに、裏拍のハープは心を弾ませる幻想的な陽気さを演出する。序盤の印象からすれば不可解なまでに変貌するこの終盤の展開についても後ほど私見を述べたい。

3-2 変幻する印象その一~船との出会い~

 『エーゲ海に船出して』が初めて流れるのは、港町サンマリーノの船着き場だと思われる。主人公はこの船着き場に着いて初めて船の存在を目の当たりにする。航海に堪えうる大きな帆船が登場した瞬間は、それまで徒歩で移動していた主人公にとって新たな移動手段が登場した瞬間であり、移動範囲の飛躍的な拡大をも予感させる新たな可能性との出会いの場面である。その様な場面で初めて流れるのがこの曲なのだ。

  船の登場は、その先にまだ見ぬ大地が待ち受けているという確信、そして未だ明かされぬ真実が徐々に明かされてゆく可能性を示唆する。わが身に何が起きたのか、なぜ二つの大地が存在するのか。この先の冒険において、主人公が背負う運命が明らかになる過程で知る真実が、明るく望ましいものであるとは限らない。船着き場に立つ主人公の耳には波の音が聞こえている。引いては寄せる波の音は、胸のざわめきと呼応する。

 ただし船に乗れたとしても、まだこの段階では船を自在に操作できる段階には至らない。定期便のように、行き先が既定の船に乗り、荷物のごとく運搬されるに過ぎない。

 ゆえにこの段階では、未知の土地に向かわざるを得ない主人公の内心の不安を代弁するものとして『エーゲ海に船出して』は重々しく響く。

3-3 変幻する印象その二~船の入手~

 ドラクエシリーズにおいて、船の入手は大きなターニングポイントとなる。

 船を入手するまでは、本質的にはただの「お使い」でしかない。主人公は行く先々で道案内の役割を果たす人物と出会い、行く先のヒントを得られる。それをもとに移動すれば、次の目的地へと移動できる。だがそれは、行動を制限された「お使い」を強いられているようなもの、とも言える。たった今、「行く先のヒント」とか「移動できる」とか言ったばかりだが、要するに指定された通りに移動しなければゲームが進行しないのだ。

 それに対して船を手に入れた後は、行動の自由度が格段に上がる。

 もちろんゲームシステムの制約の範囲内での自由ではあるのだが、お使いはお使いでも、「わりと自由に寄り道してもいいお使い」へと変化する。船入手以前と同様に行く先のヒントは提供されるのだが、行動の選択肢が大きく広がることは間違いない。またドラクエシリーズのほとんど全てのタイトルでは、ストーリーの本筋に全く関係の無いお遊び要素が用意されており、それを探す楽しみもある。

 例え話で言い換えてみよう。

 ドラクエの最終的な目的を「カレーライスを作ること」だとしてみる。船を入手するまでは、「米を炊け」と命令される。指定の店から米を買ってきて、炊飯することを強制される。そして船を入手した後は、「ルゥを作れ」と命令が変わる。ただし、ルゥの作り方は比較的自由が許されている。どの野菜やスパイスを集めるか、どの店に買いに行くかを選べたり、どの順序で買いそろえるかを選べたりする。標準的な品揃えの近所のスーパーで買いそろえることもできるが、足を伸ばせば、こだわりの良質な野菜や変わり種のスパイスを売っている店がある。また、わかりにくい場所にあるが、一粒鍋に入れるだけで激ウマになる秘伝の調味料を売っている店もある。さて、あなたはどうする?

 かえってわかりにくくなってしまっただろうか……。

 話が逸れたが、船の入手はそんな感じで行動の幅が広がる起点となる。

 先ほど、『エーゲ海に船出して』は後半部終盤で曲調が変化し、明るく朗らかになると述べた。この変化は、主人公の行動範囲が拡大するというストーリー展開の進行とも連動しているように私には思われる。重々しいくびきから解き放たれ、身軽になり、思いの向くまま、穂先の向くままに船を走らせる。心中に重く垂れ込めていた叢雲は晴れ、ようやく未来の希望に胸を弾ませられるようになる。行く先で待つ出会いに胸を膨らませ、自由を満喫する朗らかな期待、そういったものがそこにはある。 

3-4 変幻する印象その三~再び海へ~

 しかし朗らかな曲調はやがて落ち着き、また元のもの悲しさへと回帰する。

 ゲームのBGMという特性上、この曲は何度もリフレインする。曇り空から晴れ間へと、そして晴れ間から曇り空へと止めどなく移ろう。アンビバレントな二つの曲調は、主人公の船旅が終わるまで延々と繰り返される。

 さて、ゲームを前に進めよう。

 主人公は船を入手し、新たな大地へと穂先を向ける。やがて陸に上がった主人公は、波に揺れる船上での不安定な足場と不動の大地との違いを実感する。海と陸とでBGMが切り替わる。全く方向性の違うBGMに切り替わることによりプレイヤーは陸地の旅路を思い出す。

 やがて主人公は戦いを経て、陸地での使命を全うする。そして次の目的地へと向かうため、再び海へと向かう。海岸から船に乗るとBGMがまた切り替わり、『エーゲ海に船出して』が流れ始める。

 するとまたしてもこの曲は、別の表情を見せ始めるのだ。

 『エーゲ海に船出して』は、例外はあれど基本的には移動中に流れる。つまり、出発地点と到達地点という二つの点を結ぶライン上を移動する際に流れる音楽である。ドラクエⅥにおいてストーリー展開が進行するのは、街や村、城都などといった「点」の部分においてである。ストーリー展開が進行する、という現象をもう少し詳しく説明すると、主人公とその仲間たちが新たに出会う人々(敵を含む)との交流を通じて、世界の秘密や、主人公や仲間たちが背負う運命を徐々に知ってゆく、ということである。発生するイベントは「点」によって異なり、明らかにされる事実もまたそれぞれに異なる。主人公や仲間たちの過去の物語が明かされることもある。開示されてゆく情報が、明るく希望が持てるものばかりであるとは限らない。そして重要なことに、「線」上ではストーリーは進行しない。「点」で見聞きしたことに思いを巡らせる追憶の時間が、『エーゲ海に船出して』とともに流れゆく。

 

 船旅にも慣れてきた頃には、もう既に相当の経験を積んでいる。数多の人々と交わり、無数の敵を倒している。その頃にはプレイヤーは『エーゲ海に船出して』の響きの中に、ある種の虚無感を抱くようになっている。その要因は行く先々の村や町、城都で目にする人間の暗部である。魔王や魔物は人間と敵対する勢力ではあるが、人間同士が皆一枚岩というわけではない。策謀や裏切り。想いはすれ違い、愛情は届かない。魔物と戦い、人々の賞賛を得てその土地を旅立つ主人公の心中には相反する複雑な思いが残される。私は一体、誰の賞賛を得たのだろうか? 誰を救い、誰を傷つけたのだろうか? 戦いはいつまで続くのか?

 再び海原にこぎ出す主人公の胸をよぎるのは、そんな世の無常である。

 『エーゲ海に船出して』の曲調は前半と後半で大きく変化することは既に述べた。一曲を通して最もテンションが高まる箇所、いわば「サビ」に相当する部分は前半に存在する。緊張感をもって高らかに響く笛の音は、答え無き問いにあてどなくさまよう者たちの悲痛な心の叫びのようにも聞こえてくる。小屋ひとつない海原は、周囲の目を気にせずに、感傷に浸れる数少ない場所でもある。船の上で叫び出したい時もあるかもしれない。叫び声を上げるのは、主人公たちばかりではない。街で出会った青年が嘆く声かもしれない。はたまた魔物か、あるいは海そのものの声なき声か。あるいは全てを知りながらも、見守ることしかできない何者かの声なのだろうか。答えの出ない思索は飛沫が見せる幻影のように、茫洋としながらも尽きることはない。

 ストーリー展開が進行するほどに、笛の響きは深みを増してゆく。

3-5 なぜ曲調が大きく変わるのか

 そうしてみると、後半部の聞こえ方もまた変化を遂げてゆく。

 後半部終盤は、直前の悲痛な叫びからは予想もつかないほど軽やかに明るく変貌する。加えてそこには幻想的な陽気さが色濃く漂う。一見不可解な展開を見せるようだが、考えてみればある可能性に思い当たる。

 それは、夢で見る光景を表現している、という可能性である。

 本記事の序盤で少しだけ触れたが、主人公が育った山村では村祭りが行われている。『エーゲ海に船出して』の終盤では、まどろんだ主人公が故郷の村祭りの光景を夢に見ている光景が表現されているのではないか、と私は考えている。村祭りでは、主人公の妹がある重要な役目を果たしている。村祭りの思い出は、妹とのささやかながらも幸せな過去を想起させる。つらい現実から目を背ける主人公は、故郷での平和な日々を夢に見ている。

 そう考えると、『エーゲ海に船出して』の終盤に漂う幻想的な響きに納得が出来る。該当箇所を聴いた私の脳裏に浮かんだイメージは、聴覚的には「祭り囃子」であり、視覚的には「宵闇に浮かび上がるいくつものぼんぼり」だった。本記事はこの印象に立脚して書いていると言っても過言ではないほどに、この印象は私にとって非常に強い。

 しかしこの直感に従って考えてみると腑に落ちる点がいくつもある。「宵闇に浮かび上がるいくつものぼんぼり」は故郷の村祭りの光景であり、笛の音とハープの調べがまるで祭り囃子のように楽しげに踊る。だが楽しく幸せな夢を見ていられる時間は短く、いつまでも続かない。やがて夜が明け、曲はループする。目覚めた主人公は、先ほどまでの光景が幻想であると悟り、非情な現実に向き合わねばならない旅の境遇を思い出す。もの悲しげなメロディーは、夢から取り残された孤独感をも表している。

 大きく方向性が異なる二つの曲調をもつ『エーゲ海に船出して』の構成は、二つの大地が層状に重なるドラクエⅥの舞台設定ともリンクする。それぞれの大地は、当然ながら別々のゲーム作品の舞台として存在するわけにはいかず、ドラクエⅥの中に同居しなければならないシナリオ上の要請がある。同様に『エーゲ海に船出して』においても、二つの曲調は、別々の楽曲として単独では存在し得ず、一曲の中に同居しなければならない理由があると考えたい。そしてその謎を解く材料は既にそろっている。

4 エンディング~結論~

 『エーゲ海に船出して』を語るためには、まずドラクエⅥのストーリーを語らねばその魅力を伝えることが出来ないと述べ、序盤のストーリーを私なりに説明した。そしてストーリー展開の進行と併走するかのように印象が変わりゆく奥深さを説明してきた。

 
 最後のまとめに入る前に、もう一度序盤のストーリーを簡潔に振り返ろう。

 

 物語はいきなり魔王との決戦というクライマックスから始まる。しかし主人公とその仲間たちは魔王との決戦に敗れてしまう。主人公が再び目を覚ますと、自宅のベッドの傍だった。

 

 散々迂遠に述べてきたが、もはやこれで十分だろう。要するに「胡蝶の夢」である。夢の中で私は蝶になって飛んでいたが、目覚めてから考え直してみると、私の本当の姿は蝶であって、こうして人間の姿をしている現実こそが、蝶の見ている夢なのかもしれない……と思索にふける人物に由来する故事であるが、ドラクエⅥはこれをのっけからプレイヤーに投げつけてくるのだ。この世は夢か、それとも現実か。悩め! そして考えろ! と突きつける。そうしてプレイヤーは、主人公との融合と、ストーリーへの介入を余儀なくされる。「魔王との決戦」が夢だったのか、現実なのか。主人公(あなた)は一体何者なのか。二つの大地を股にかける冒険の中で、主人公(あなた)は何度も自分に問いかけ、問い直す。悩み、迷い、揺れ動く、その姿は、海に浮かぶ一艘の小舟と重なる。荒波に揺られ、時には自分の居場所を見失いながらも、いつか陸地にたどり着くことを信じて進む船のイメージと重なる。

 すぎやまこういちドラクエⅥの海のテーマソングとして『エーゲ海に船出して』を作曲した。この曲において「海」は人生を表し、「船」は人を表している。曲調の変化あるいは二面性は、経験を重ねて変わりゆく思考を表し、一日を通して揺れる感情を表してもいる。上下二層に大地が分かれ、「世界の捉え方は一様ではない」と陰に陽に訴えかけるドラクエⅥの世界観を踏まえた上で、「海のテーマソング」をどのように解釈し構築するか。深い理解と思索の痕跡がそこにはある。『エーゲ海に船出して』は、他の楽曲では代替不可能な、ドラクエⅥを象徴する素晴らしい名曲である。私はそのように考えている。

5 おまけという名の蛇足~曲名について~

 ここから先は蛇足である。

 正直に言えば、なぜ『エーゲ海に船出して』と名付けたのか、音楽の教養もエーゲ海の教養も持ち合わせていない私にはさっぱりわからない。まさか「ええ下界に船出して」ではあるまい。が、なんとか見解をひねり出してみよう。

 エーゲ海は地中海における一海域である。ドラクエⅥにおいて海域の名称は定かではないが、さすがに「エーゲ海」ではないだろう。曲名の「エーゲ海」は、現実世界のエーゲ海を指すと思われる。

 これにはどういう意味が含まれているのだろうか。 

 この命名は、「エーゲ海=風光明媚な観光名所、というイメージは多くのプレイヤー(日本人)の共通認識である」という理解に基づくと思われる。実際にエーゲ海を見たことがあるプレイヤーなど、プレイヤー全体の母数からすればごくわずかに過ぎないだろうから、エーゲ海は誰も存在を確認したことがない共同幻想であるという見方もできる。

 幻というのはドラクエⅥのキーワードである(なにせサブタイトルが「幻の大地」だ)。で、エーゲ海=幻、と考えるとこの曲は、幻に向かって船出する曲となる。仮説に仮説を重ねすぎて訳がわからなくなってきたが、毒を食らわばなんとやら、まだまだガシガシ積み重ねてゆく。ここでの幻が何を指すかだが、ここは「人生に対する不安」を指すと考えたい。つまり、海=幻=人生に対する不安、である。先に人生を荒波に例えたように、人生は山あり谷あり、波瀾万丈なものと思われているだろうが、それが真であるかは実際に生きてみないとわからない。悩んだところで仕方ない類いの悩みもあるが、本当に苦しいのはそういう類いの悩みである。で、この曲は、そういう悩んでも仕方ないことに悩んでしまう人に向けた応援歌である、と仮定してみる。それと曲調が変化することとを合わせて考えると、「今はつらくても、楽しいこともあるさ」というメッセージが浮かび上がってくる。まあ、この解釈は脳天気すぎる気がするが……なにせ曲はループするのだから……。あ、それなら七転び八起きということか? 何度つらいことがあっても、楽しいことも何度もやってくるさ、と。それならよし。

 さて、前向きなメッセージが導き出されたことに満足して、最後にもう少しだけ私見を述べて終わりたい。

 タイトル決定に至るプロセスはわからないが、この曲名はドラクエⅥからプレイヤーへのメッセージだと考えている。ドラクエⅥでは、BGMの曲名はゲーム内では確認できず、サウンドトラックを買い求めるなどしなければ曲名がわからないようになっている。そのため基本的にはBGMの曲名まで目にするプレイヤーは少数に限られる。もし曲名に何らかのメッセージが籠められているとすればそれは、少数の、ドラクエⅥを深く愛したプレイヤーに宛てられたメッセージだと考えられる。するとそこに籠められるべきメッセージは前向きなものと思われる。よって先ほどの推論も、さほど的外れではない。私はそのように考えている。