読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

津野米咲さんの一周忌に寄せて

はじめに

今日で私の敬愛するミュージシャン、津野米咲(つのまいさ)さんが亡くなってから1年になった。一周忌にどんな文章を寄せるのが適切かわからない。津野さんに思いを馳せる一日であることには違いなく、そのために津野さんを喪ったこの一年の私の人生を避けることはできない。そうでないとどこか他人行儀なことしか言えなくなりそうな気がする。

自分にも他のファンの方々にも傷跡がまだ残っている現時点で、もう昨年のことをまとめるべきなのか悩む。でもその記憶とか感覚が徐々に薄れていってしまうのも感じる。津野さんを喪った傷跡はあまりに大きくて、他の人物や趣味にその傷跡を癒やしたり隠したりしてもらわなければ、この1年を過ごせなかったことだろうし、これからもそうやって生きていくだろう。日常的にその傷跡を眺めることはしんどいものの、最も悲しいのは、津野さんに思いを馳せた日々を忘れてしまうことだと思う。だから、こうした節目の日にしっかりと見つめたい。そう思って、本稿では当時のツイートや日記や音楽の再生記録から、私が2019年に赤い公園を好きになってから昨年の今日まで、昨年の今日からおおよそ1週間の間に考えたこと、そこから今日までの1年間どう過ごしてきたことを振り返ることにした。

前もって断りを入れると、読んでいて楽しくはないと思う。特に「2020年10月18日から23日」は、週の頭で憂鬱な気分になっている人や、私と同じように、津野さんに思い入れがあって今も哀しみを抱える人が読むには早いかもしれず、読み飛ばすことをおすすめする。

2019年4月から2020年10月

私が赤い公園を自ら聴き始めたのは2019年4月のことである。それまで何度か「NOW ON AIR」と「恋と嘘」は聴いたことがあり、キラキラしたガーリーな曲を作るバンドなのねという認識だった。妙に「NOW ON AIR」を思い出す時期が訪れて、TSUTAYAでベスト盤を借りた。程なくして、バイトに行きたくないなーと言う心をマイペースに歌った「ナンバーシックス」や、ゴリゴリのロック調の曲に友人との関係性や地元あるあるを載せてシャウトする「絶対的な関係」「西東京」、しんどい時に寄り添って応援してくれる「KOIKI」「黄色い花」など、赤い公園は1曲でその特徴を説明するのが難しいほどのバリエーションを持つことを知り、一気にこのバンドが好きになった*1  *2。これほどのバリエーションを持つバンドを好きになったのは東京事変以来2度目だった。さらに、東京事変はメンバー全員が作曲するのに対し、赤い公園はほぼ全てをギターの津野さんが作っていることにも衝撃を受けた。

 数カ月後には全てのアルバムを借りてきて、一人で過ごすには長すぎる夜のおともに、赤い公園は欠かせなくなった。ボーカルが途中で変わるという大事件を経ても、その前後の曲をシャッフルして聴いても違和感がないくらい、津野さんの曲には普遍的な魅力があった。津野さんが水曜日のDJを担当していたラジオ番組「ゆうがたパラダイス」(以下ゆうパラ)を聴くようにもなった。津野さんが選んだりリスナーの投稿を採用したりして放送した楽曲の中には、赤い公園でなくても、耳に残る曲が毎回のようにあった。津野さんは赤い公園の曲をそのまま形にしたような人だった。体温が高いわけではないながら、マイペースで楽しい語り口にも虜になっていった。追い詰められて大喜利コーナーに泣き言を投稿したときには励ましてくれた。そのころ、新体制初のEPが発売し、加速度的に赤い公園の曲を聴くようになっていた。

それほど好きになった赤い公園と津野さんを間近で見る機会が二度訪れた。一度目は2019年10月に鹿児島県の桜島で開催されたザ・グレート・サツマニアン・ヘスティバル。きゃりーぱみゅぱみゅの出番直後、別ステージに登場した赤い公園は2列めで観ることができた。日差しが照りつけてとても暑いステージの上で、津野さんがギターを抱えながら無邪気にくるくる回っていたのはとてもかわいらしかった。KOIKIを演奏してくれた時には、生でその曲のパワーを受け取れる感慨に涙が止まらなかった。二度目は同年の11月末に福岡で開催されたワンマンライブで、奇跡的な整番を獲得し津野さんの目の前でギターアンプから音を浴びることができた。口すぼめるとことか右足をキュッキュしてるとことかちょっとはねてるとことかギターのカッティングとか、もう津野さんの全てが愛おしかった。津野さんがギター弾いてるところを一生見ていたいと思った。はしゃぎすぎて観終わることにはヘトヘトになっていた。あれが間違いなく人生で一番推しとの距離が近く幸せな瞬間であった。

2020年は新体制初のフルアルバムとバンド初のホールライブを含むワンマンツアーが予定され、更に加速する赤い公園に胸が高鳴った。自宅の近くにもまた来てくれることが嬉しかった。フルアルバムは今までの曲に感じた好きなところも新しさも包含していて、生で演奏を聴くことが楽しみになった。でもワンマンツアーは全て中止になってしまい、フルアルバムの宣伝機会もすぼんでしまった。ゆうパラはやがて収録を自粛して再放送になり、数カ月後に宅録での放送を再開した。自宅近くでワンマンツアーの公演があるはずだった日には、会場と同じフロアにあるリハーサルスタジオにドラムを叩きに行った。Highway Cabrioletのバスドラがシンプルながら難しかった。

2020年10月18日から23日

昨年の10月は、コロナ禍が始まって半年以上経ち、海外の学会や映画など、色んなイベントの中止を経験して、私の気分は浮つかないままだった。ゆうパラは毎週録音しながら聴いていた。ゆうパラへの投稿はいつもバッターボックスに立っている気分で、打席数は限られているから、なるべくその機会を逸することなく投稿しなければと思っていたけれど、そのころはなかなか期限までに投稿することに割くエネルギーがなかった。

その日を迎えるまでの数日間は、プライベートで1週間前に嫌なことがあり、ストレスが限界近く溜まっていた。そうした中で私は、他のアーティストの曲とともに赤い公園の曲を聴きながら心を落ち着かせていた。それまでの2週間に聴いていた赤い公園の曲を回数順に5曲並べると「Highway Cabriolet」「いちご」「贅沢」「楽しい」「Yo-Ho」で、静かに寄り添ってくれる曲や、アップテンポに励ましてくれる曲によって心を落ち着かせていたことが伺える。ゆうパラの10月14日の回では、直前に作曲家の筒美京平さんが亡くなったため、番組の最後に津野さんは消え入りそうな声で筒美さんを悼みながら、彼が作曲したTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN」をかけていた。私はその放送を翌日に聴いて、津野さんの言葉とともに流れたその曲を聴いて涙したことをツイートしたところ、それまでほとんど関係者以外のツイートに反応しない赤い公園Officialからいいねをもらった。その時は珍しいなとちらっと思ったくらいで、赤い公園officialが自分のツイートを読んでくれたことを無邪気に喜んでいた。

10月19日月曜日。いつものように研究室に行き、いつものように赤い公園のプレイリストに他のアーティストを少しだけ混ぜて聴きながら、午前中を終えた。昼間ご飯を食べながらツイッターを開いて飛び込んできたのが「津野米咲さん」というトレンド。本能的にその選択肢を除外していたのかもしれないが、私は結婚したのかなとか呑気なことを思っていた。それが訃報であると知った時、私は悲痛な叫び声を上げ、机に突っ伏して涙を止めることができなかった。まだ事実を受け止めることができなくて、最初は二度と演奏する姿を見られないこと、新しい曲を聴けないことが実感としてやってきて途方もなく悲しかった。そして楽しそうにギターを弾く津野さんをいつでも思い出せるように、今までのライブの映像の商品化を願った。午後は当然作業に手がつくわけがなく、ハッシュタグに他人行儀なコメントばかりが並ぶのが辛くて、それまでの再生回数順に赤い公園の曲の好きなところを書いて投稿した。

その晩から、夜を迎えるのが怖くなった。これまで真っ平らで転んでも大したことのないと思っていた道が、実は切り立った崖になっていたと気づいた感覚。人の命はこんなにあっけなく終わってしまうんだ、自分はまだ命を終えたくない。初日は赤い公園を好きな飲み友達と居酒屋で飲んだ。それにどれだけ救われたかわからない。相手にとってもそうだったかもしれない。かなり酔っ払って帰りがけに黄色い花と私の好きなテマリソウを買って帰り、瓶に生けた。その花を写した写真は、今に至るまで私のスマートフォンの待受画像になっている。帰って布団に入ると、やっぱり、もうできなくなってしまったことに思いを馳せてまた涙がこぼれた。また住んでいる場所のご当地Tシャツでライブに行って目を合わせたかった。ラジオでお便り読んでほしかった。あわよくば私の住む街の近くで行われるフェスの出番前後に街を案内差し上げたかった。年末にNHKに映る姿を見て涙したかった。全てをなげうっても生きてほしかった。

20日火曜日の朝。前の晩から目覚めるまでに、私が赤い公園のことを好きだと知っていた何人かが私を案じて連絡してくれた。きっとその人達は、ただの世間話よりはほんの少しでも身近なこととしてそのニュースを受け止めてくれたのではないか。それだけで自分の好きなものを周りの人に伝える意味はあるというものだ。やがて夕方には後悔が訪れる。辛い時にその楽曲で、ラジオでの体温低めながらマイペースでご機嫌なトークで、時には私の投稿に対するコメントで、私を励まして支えてくれた恩人を、いざという時に支えることができなかった。津野さんが持っていてたまたま私も持っていたコケロミンで、赤い公園の曲を演奏する動画を津野さんにメンションを飛ばして見せていたら。先週のゆうパラの感想ツイートがもっと津野さんを案じる内容だったなら。アーティストと一人のファンという関係には大きな壁があり、私が彼女に影響を与えられるなんて思い上がりも甚だしいが、きっと私は津野さんに依存しすぎたし、私が推してきた作品やバンドの中では群を抜いてライブやラジオでつながりを感じることができたから、そんな思い上がりをしてしまったんだと思う。そうやって自分の無力感に打ちひしがれているときにさえ、津野さんが作り出した楽曲が慰めてくれた。なるべく早くzoom飲みをしたいと何人かに声をかけて何人かが応じてくれたが、さすがにその晩にはアポイントを取れず、強烈な肩こりとともにとりあえずスーパー銭湯に足を運ぶ。私の応援している千葉ロッテマリーンズがサヨナラ負けをする。2日連続で同じ店に行くわけに行かず、次に駆け込もうとした店は臨時休業で、さらに最後の一つと入った店も貸切営業。全てが運悪く悪い方に転がってしまったこの晩がいちばん崖っぷちだった。

21日水曜日の朝。星野源や米津玄師など、第一線で活躍するアーティストがラジオやインスタで悼むのを見て感謝。みんなの選ぶ曲がばらばらで、ああちゃんと聴いてくれたんだなと嬉しい気持ちになる。やはりトイレで涙が止まらなかった。夜は前日に応じてくれた人たちとzoom飲み。22日木曜日、数ヶ月前に津野さんと曲を共同制作していた谷口鮪さんが活動休止を発表。ちゃんと逃げてくれて半分安心、半分不安。未だに一日をやり過ごさざるを得ない。火曜日に閉店していて行きそびれたお店では私のために赤い公園をかけてくれていた。実はその前日もかけて私の来店を待ってくれていたそうだ。私のためを思ってしてくれたことに感謝するものの、それは自分がしんどくなって津野さんから意識を遠ざけたくなっても強制的に耳に入ってしまうことでもあり、少し辛かった。かけてくれたのと別の店員さんからは、私があまりにくよくよしていて、慰めてもらうのを期待した言動をとっていたからだろう、自分の一番好きなアーティストがこの世を去ってもそこまで悲しむとは思えない、自分が間違っているのかなあといった内容のことを言われた。無意識に周りに自分へのメンタルケアを押し付けていたことに思い至って反省し、かといってその言葉に対する思慮深い返事を用意する気力がなかった私は、早々にその店を去り、月曜に行った店を再び訪ねることとなる。

23日金曜日の朝はようやく前向きな、その一日をやり過ごさずに済みそうな気分で迎えることができた。赤い公園以外の曲も聴けるようになった。ウィークリーステラの最新号でゆうパラのパーソナリティとしての津野さんのインタビューを読んで、津野さんが想像以上に番組の構成に関わっていたことを知る。この日に初めてゆうパラリスナーの方々が集まってツイキャスで話をしていたことを知って話に加わる。ゆうパラで度々読み上げられていた方々は、津野さんに似てユーモアにあふれていて選曲センスもあって小粋な人たちの集まりで、半分ゆうパラのような空気を感じられて心地よかったけど、やはりその人達を集めて中心で楽しそうにしていた人の不在を感じずにはいられなかった。それでも、赤い公園と津野さんのことが大好きで、今回のことに深く傷ついている人々と時間を共有することがやっぱり一番のメンタルケアになった。

それからの一年間

次の日から少しずつ日常を取り戻し始めた。そうは言っても当然津野さんを喪った悲しみから抜け出したわけではない。この記事を書くにあたって、やはり当時ほどでないにしても悲しく、また苦しくなり、今でも傷が癒えた訳ではないことが再確認された。この一年、周りのことが悪い方に連鎖してしまい行き止まりの夜を迎えることも何度かあった。そんなときは花を買う習慣がついた。最初は津野さんが見守ってくれている気がして黄色い花を買っていた。最近では赤いガーベラとかも仲間入りしている。日常に戻った私は津野さんがくれた優しさを、本人に返せなかった優しさを、代わりに周りの人に分けてあげなければならないと思い、やがてその思いが強くなり強迫観念にも近くなって、以前にも増して人と対立する意見やネガティブな評価を口にできなくなった。それ以前に下がっていた自己肯定感も相まって、人を傷つけないことに敏感になり、やがて他人の言動にも敏感になるポリコレお兄さんと化していき、しかしそうして抱いた違和感はほとんど指摘できず、新たな人と仲良くなったり人を誘ってなにかしたりすることが怖くなっていった。どういうことに引っかかりを覚えるかをここで整理するのは難しいから、機会があればまた文章にまとめたい。人を傷つけないようにしながら、しかし時には少し踏み込んだことを言うのって、実は専門技術のように限られた人にしかできないことで、そうしたことは、津野さんを真似しようとしても私が津野さんのようにギターを弾いたり曲を作ったりできないのと同じくらい不可能なのかもしれない。

そんなふうに私は、今まで以上に感受性が敏感になってしまい心をすり減らしていた。やがて感受性のつまみを極力しぼって生きるようになり、目の前のことは進めることができても中長期的な人生設計を見失い、とにかく人生をやり過ごすことが至上命題になっていた。そんな私をぎりぎりつなぎとめてくれていたのは、リモートで度々顔を合わせてくれた旧友と、Twitterで哀しみを共有する赤い公園ファンのフォロワーと、こちらでできた数少ない飲み友達と、「魔女見習いをさがして」や「けいおん!」などのアニメである。「けいおん!」の唯ちゃんに影響を受けて始めたギターは、それまで好きになった他のアーティストの楽曲にも新しい楽しみ方を与えてくれた。本業で想定より遅いペースながら着実に業績を積み上げることができ、たまに認めて貰う機会があったのも、自分の生きる意味というか、生産者としての価値を与えてくれた。そして、それ以降の赤い公園の活動がやはり大きかった。私達よりも遥かに関わりが深かったメンバーやスタッフの皆さんが受けた傷は途方もなく大きかったと思うのに、翌週にはメンバーが声明を出してくれて、年末にはステージに立とうとしてくれた。結局その機会は流れてしまい解散することになったけど、メンバーとファンが久々に対面する解散ライブは、決してくよくよしたまま帰らせるまい、楽しんで帰ってもらおうというメンバーの愛をたくさん受け取ることができた。想像を遥かに超えてたくさんの曲をやってくれたのが嬉しかった。ギターを始めてから初めて生で観る小出さんとキダさんのギター姿はそうやって弾くのかと興味深くて、とてもかっこよかった。それまでにインターネットで知り合ったファンの方々と顔を合わせることができたのも嬉しかった。解散ライブを収録したBDには、津野さんの演奏姿が収められたSHOKA TOURやYouTube liveの映像も、二度と聴けないと思っていた新音源も盛り込まれていた。まだ開けることはできていないけど、きっとまた自分を笑顔にしてくれると思う。赤い公園つながりのTwitterのフォロワーの皆さんは、赤い公園を好きになって得た財産の一つとなった。これからもっと関係を深めても、疎遠になっても、この1年を共に生きてくれた感謝はなくならない。

そうこうして、まだまだ2年前くらいの本調子には程遠いけど、なんとか自分の機嫌を取りながら一年を生きることができた。この次の一年もぼちぼち生きられるように、たまに津野さんの力を借りようと思う。ありがとう、これまでも、これからも。

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*1:その他の赤い公園の楽曲の好きなところをまとめたツイートを紹介するので、赤い公園に興味を持った方は読んでみてほしい。

 

*2:文で読むより手っ取り早く曲を聴きたい、というあなたのために、昨年作成したプレイリスト「赤い公園の20曲」をご紹介する。