読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

「凛々爛々」と「事実は存在しない。在るのは解釈だけだ」に対して色々考えたこと

1.はじめに

1.1. きっかけ

「事実は存在しない、在るのは解釈だけだ」(以下、簡略化のために「ノー事実バット解釈」と呼ぶ)はニーチェが著書「権力への意思」で述べた言葉である。原文ではこうだ。

Nein, gerade Tatsachen gibt es nicht, nur Interpretationen.

私はこの言葉をこれまでにも本ブログで何度か紹介してきた赤い公園の「凛々爛々」という配信シングルのジャケット写真で知った。ザリガニ缶の下の方にこの言葉がプリントされている。

f:id:yominabe:20211028145150p:plain

凛々爛々のジャケット

この格言がジャケットに採用されたのは、デザイナーかメンバーが、この格言が曲で歌われている思想にマッチすると考えたからだろう。凛々爛々は、周りのがあなたのことを悪く言ったとしても、それはその人があなたの素敵な面を引き出せてないってだけなんだよ、そんな人のせいで惨めな気分にならないで、自分だけは自分を愛してあげようね、というメッセージが込められた楽曲である。

この曲の作詞をした津野さんは

この曲は、凛として日々を過ごすための、ちょっとしたお守りのようなものです。
──津野米咲(Guitar / Chorus)

と述べていて、私も「凛々爛々」を座右の銘として日々の生活を歩んでいる。是非楽曲を聴いてみてほしい。

また、歌詞は以下のリンクを参照いただきたい。

さて、私がジャケットにノー事実バット解釈が書かれているのを知ったのは赤い公園が好きなフォロワーさんのツイートがきっかけであった。確かにこのメッセージを言い換えた格言として適切なものはノー事実バット解釈だと思ったし、そういう事を言いたかったんだね、と膝を打った。

こうして私の心には「凛々爛々」とノー事実バット解釈がセットで刻まれることとなったが、これらの言葉を常に前向きに捉えて機嫌良くあり続けられているわけではなく、何ならこの言葉も解釈になるよね、とぐるぐる考えることもあった。やがて眠れない時にその思考の周回軌道をたどるようになってしまっているので、本稿で整理したい。

なお、この記事の主題はニーチェがどんなニュアンスでノー事実バット解釈を発したかではない。最後にちらっと紹介したいけれど、世の中言葉というものは独り歩きするものであるし、特にノー事実バット解釈は格言となって百年以上残り続けているので、前後の文脈から本人の正しい意図に基づいて広められる可能性は減ってしまっている。やはりそれも解釈なのだ。とはいえ、私はなるべく誤った解釈を広めない人間でありたい、あるいは周囲の人間にこの人は正しいことを言う人間だと解釈されたいので、少しは原典の文脈を引用して、事実に基づいた解釈をしたいと思う。

1.2. そもそも「事実」と「解釈」とは?

そもそもここが難しいところだ。例えば今日は朝8時に起きましたというのは事実だ。いや、目覚めるとはどういう状態かは人それぞれだから断定はできないか。…みたいに突き詰めて考えていくと、事実と言い表せるのは割と厳格な定義を設定したとして、その定義に対する命題が真であると判定できたときだけなのだろう。先述した「起きる」とはどういう瞬間を表すかの定義を試みると、以下のような候補がある。

  1. それまでの1時間の平均的な動きから有意に外れる動きを取った時
    →寝相が悪い人は就寝時から起床時にかけて頭の向く方角が180度回転していることもあり、目覚める時の動きが平均的な動きに含まれることもある。無意識に立ち上がって行動することもある(いわゆる夢遊病)。休日に目覚めてから布団にこもってスマホをいじって早3時間、有意義な午前中は泡と消えた…ということもある。
  2. 机の上に置いたスマホの画面を触った瞬間
    →割と良い線行ってる気がする。目覚ましを枕元においておくと無意識に止めてしまうが、机の上に置いておくと強制的に目覚められるという。しかし数日続けるとやがて布団から出るのを諦めてしまい、けたたましい目覚ましの音が流れて隣人に迷惑をかけていないかと心配になり、この試みをやめてしまう。したがってこの方法には継続性がないため、「起きる」の定義に採用するのは見送らざるを得ない。
  3. 敷布団の水平領域から体の重心が脱出した瞬間
    →先述の夢遊病とか夜トイレに行ってすぐ寝るとかを考えなければまあ妥当だろう。この例外も組み入れたいなあ。
  4. 敷布団の水平領域から体の重心が脱出した状態が30分継続した時点から数えて30分前
    →寝不足で旅行初日を迎えた朝、同行者に引きずり出されて車に乗り込むが、車で即就寝と言うパターンもある。
  5. スマホアプリで覚醒状態を評価して覚醒したと判定された時
    →これが最もアクセスしやすく客観的な気がする。しかし手法が正当かの検証*1が必要だ。

…みたいに、ひとつの行動に対する統一的な定義を定めるのはめちゃめちゃめんどくさい。人生においてあらゆることに対してそんな厳格な定義を持ち合わせるには1日が24時間*2では足りない。何となくの定義で物事を評価してしまう。それが解釈というものなのだろう。凛々爛々は事実と解釈というものを自己評価に限定している*3。本稿では自分を対象とした評価だけでなく、より一般的に人が他の人をどう評価するかも含めた人物評価をテーマにする。

2.人間関係からは逃げられない

さてようやく本題である。ここまで読んでくださった方は凛々爛々の歌詞を読んで、あるいは楽曲を聴いてくれたことであろう。前向きな気分になって自分のことを好きになれたね。めでたしめでたし。とは行かないのが世の中である。どれだけ自分のことが好きでいようとしても、周りが敵だらけでは長くは持たないので、自分を気に入ってくれる人を見つけるのはやはり重要である。やはり自分が自分を愛することは最後の砦として、自分が好きになりやすい環境を整えることが凛々爛々の近道である。本章では自分を好ましい人間だと解釈してもらうことや、人が他の人をどう解釈するか、自分はどう解釈すべきかを整理し、自分が好きなアニメの登場人物をこれらの考えを通して解釈してみる。

2.1. どれだけ自分が良い人間になったと思っても好かれないことがある

多くの人間関係においては、自分が気に入った人と自分を気に入ってくれる人は一致するものである。「私のコンロのつまみ」を渡したい人はたいてい自分のことを好いてくれ、逆に自分のことを好きにならない人はコンロのつまみを渡す必要のない人であることが多い。こうした場合には凛々爛々とノー事実バット解釈のマインドが意気揚々と解決してくれる。しかし自分の思想と異なる人を好きになってしまった場合*4が困る。なぜなら、自分が自分を好きになる基準では、その人は自分を量ってくれないからだ。それでその人の尺度を探るべく、その人と仲の良い人々に尺度のヒントをもらおうとする。しかし仲の良い人々が私のコンロを渡したいパーソンとは限らない。そうじゃなかった時が地獄絵図である。コンロを渡したくないパーソンが渡したいパーソンの代弁者となり私に心ない言葉をぶつけはじめ、渡したくないパーソン単体では真に受けなくて良かった言葉がクリティカルヒットとなって私に突き刺さる。まあこうした事態を避けるためには、とりあえずコンロ渡さないパーソンと渡したいパーソンを切り離して、渡したいパーソンとだけ人付き合いするのがいいかもしれない。あるいはコンロ渡したいパーソンがコンロ渡したくないパーソンと気が合っているということは、本質的にはコンロ渡すべきパーソンでないからまとめて手を切るのが良いのかもしれない。

2.2. 言ったもん勝ちなことが多いのはいやだね

在るのは解釈のみであるというのは、1.2.のような長い考察の末にたどり着く解釈も、大して考えずにこうじゃね?と決めつける解釈も同質に扱われることが多いということである。それで前者のような解釈を導くのは時間がかかるし、そういう導き方をする人は、導いた末の解釈が正しいという確信を持たず慎重な言い方をする、ということはしばしばある。対して後者のような解釈は思考時間が短くても導けるので、すぐに言葉にすることが出来るし、そういう導き方をする人は、正しさをあまり重視していないのであたかも絶対に正しいかのような物言いをする。それで受け取る側はあたかも後者の方が正しいかと思い込んで後者の人の解釈がどんどんと権威づけされていく。結果、正しい可能性が低いものの方が、正しいものとして扱われる可能性が高い、という逆転現象が生じてしまう。厚顔無恥の人の方が意見が通りやすい。

最近のSNS隆盛時代において人々は、そのネームバリューに関係なく自分の意見を表明できるようになっている。つまり以前にも増して素人考えが通りやすくなって、拡散されやすくなっている。そのことをPost-truth時代と呼ぶらしい。今節で述べたことと似たようなことを考えている人の記事を見つけた。

最近の政治家の言動もそうだ。明らかに間違っていることでも堂々と間違ってない!と言えば追求を免れる。議論と呼べるものが人々の目に届くのは選挙前だけで、そこでした議論も結局なかったことにされてしまう。やな世の中だね。

2.3. じゃあ自分はどうやって解釈すれば良いんだろう?

ここまでぐちぐち述べてきたのを読んでくださった方は感じたかもしれないが、自分はなるべく事実に近い解釈を掬い取っていきたい。それには一人で考えを煮詰めるんじゃなくて、人と話して色んな考え方を踏まえて自分の考えをさらに進めていくのがいいのだろう。そして、それが出来るのは、一緒に考えを進められそうだという人とだけである。そういう人を増やすためには、自分は自分の考えが完全だとは思ってないよ、なるべく対話して深めたいよ、という姿勢を表明して、少しずつ信頼関係を深めていくしかないのかもしれない。そしてそれが出来そうな人にだけコンロのつまみを渡すようにしよう。つまり対話ができそうな人を相手にするということ。やはり「バズる」のとは対極の行為が必要なんだなあ。

2.4. 信頼関係を作れそうなキャラクターが好き!

さて、ここまで辛気臭い話を続けてしまったので、最後は私の好きなものの話で締めたい。私はアニメのキャラクターを好きになるとき、そのキャラクターがコンロのつまみを渡せそうなことが多い。たとえば「おジャ魔女どれみ」の主人公たちはしばしば、彼女らに授けられた魔法の能力を、友達が困っているのを助ける道具として使う。どれみたちは彼らの間で相談しながら解決策を模索して問題を解決する。また「けいおん!」の放課後ティータイムの5人はとことん自由だ。特に唯ちゃんは凛々爛々を体現したキャラクターだ。マイペースで抜けていることは多々あれど、それでも初めて観た夏フェスの晩に「私達はここに出演しているどのバンドよりもすごいよね!」と言ってのけてしまう最強の自己肯定感を持ち合わせている。それでも嫌味に聞こえないのは唯ちゃんが周りに沢山の愛を分け与えているからだろう。唯ちゃんみたいな人に私はなりたい。最後に「小林さんちのメイドラゴン」は話し合いによる異種間コミュニケーションを尊重し、思想の違いはあれどそれに干渉しすぎないで個々を尊重する。これら3つのアニメはいずれもいわゆる日常系に分類できると思うが、何も起こらないからつまらないというわけではなく、むしろキャラクターの思想の描写に時間をかけているため深みが増していると思う。

3.最後に

結局新しい方針を決められたというより、今までの自分の行動方針を整理して言語化しただけになってしまったなあ。まあ現時点での自分の思想を記録しておくのもいいか。皆が人に過度な干渉をせず、されず、凛々爛々に生きられますように。

21/10/31提出 21/12/3公開

*1:他の観測者から起きたと言える状態を性格にキャッチできているか、あるいは脳内の活動度を測るより精緻な機械による観測結果と一致するか、など

*2:1日が24時間であるというのも事実ではなく、1日が24分割できると解釈した人間の定義に基づいて大多数の人間に受け入れられている。そもそも日が昇って沈んでまた昇ってというサイクルを1単位にするのもそういった解釈に基づく定義である。定義づけも解釈に出発点を置いていることが多々ありそうだ。

*3:これもまた私が楽曲に対して行った解釈である。といった注釈をこれ以降毎度入れていくと注釈が100個を超えそうなので控える。

*4:恋愛においてしばしば見られる、いわゆる片思い。