読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

牝鶏nの微睡#2 夜の本当の静けさっていうのは

何の音もないはずなのに、小さく確かな音がする。
最近頓に冷え込むようになってきて画面に向かう時間が増えた。それならと、本来ならTwitterにでも書き散らすべき便所の落書きをこうしてのらりくらり綴ろうかと思う。
僕はこの世の様々のうち塵のようなほんの少しのものしか見ること・知ることが出来ず、異論はいくらでも認めようと思うが、それでもなお余りに他者が好きすぎるが故に、また人は本来その圧倒的大多数が実は素朴な寂しがりの善人であるのではないかと思うが故に、これを書こうとした次第である。
僕はセックスカルチャーと恋愛に強い興味があり、犯罪の撲滅を切に願う小市民である。
僕の意図は、自分の興味の範囲を皆に開示し、ちょっとした考えの持ち方や見方を増やすことで、少しでも皆が平穏で生きやすい心の状態を維持する助けを作ることにある。
もっと言えば、孤独に寄り添いたい。誰かの死にたい夜や消えたい一日、自分は無価値だと思う瞬間を少しでも減らしたい。
何かそんなことを考えている人がいるということをふわっと理解してもらったら、あんまり厳密な論証にこだわらず、語りたいことを気ままに語ろうと思う。読んでくれるととても嬉しい。でもキツかったらすぐバックして。それではまず初めに、「体目」について。

日本語はハイコンテクストだ、とはまま言われることだがそのコンテクストの素になる考え方というのはあまり議論にならない。今回はそのコンテクストの中で、僕が興味を持ったものについて話してみたいと思う、例えば。

「体目当てだったんでしょう」

実際そういうことを言う/言われることはまぁ人生のレアイベントだと思うのだが、大多数にとってそれは
・女性が男性に向けるセリフである
・ほぼ確実に性交渉の後の時点のセリフである
・両者の相手に対する感情がベクトルから違っていた
・それを(殆どの場合男が)隠していた
・ということに(殆どの場合女が)気付き、これを責める時のセリフである
という共通の理解を生む。
上記のセリフのイロチに「金目当てなんだろう」がある。状況は違えど相手を責める言葉であることに異論はないと思う。

体目当て/金目当てという言葉が持つ価値観は何なのか。一体相手の何を責める言葉なのだろう。
人は他者に何かしら魅力的だと思う要素を感じて好意を抱く。「望ましくない」要素は上述した体や金などである。では何に魅力を感じることが「望ましい」のか。
顔——容姿は先に述べた体と同じカテゴリーに入ると思う、トロフィーワイフという言葉もあるし。若さも同様だろう。性格?性格を好きになった、は何だか「望ましい」気がする。性格って何だ。考え方、ものの話し方、様々なことの選択の基準、大切にしているもの、そういったものを描写することで表せることのような気がする。
ではなぜ性格を好きになることは「望まし」く、体や金を好きになることは「望ましくない」のか。

実はこれ、最初ちょっと考えたんだけど答えがわからなくて、友人によると「性格はその人の生き様で、努力の結晶だから?」という答えが返ってきた。もっと自信を持って主張してほしい。でも断言できないのは当然だ。だって体(スタイル)も顔(メイクや表情、顔つき)も金なんかもっと、その人の生き様で努力の結晶である場合が少なくないからだ。
もっと考えよう。体や顔、金は放置すれば目減りする資産である、とか。いや性格も放置すれば実は目減りする資産だ。何も学ばず、善く生きようともせず、困難に立ち向かうこともなければ、性格も劣化するし話題も話術も衰える。そもそも目減りする資産であることと人を好きになる「望ましくない」要素とであることとの関連性がない。違うな…
それでは上述の友人の言である「生き様」を手がかりにして考えよう。性格はその人自身の固有の、いわゆる「かけがえのない」ものだが、体や顔や金はそうじゃない、とか。顔は「かけがえのない」気がするが、とはいえタヌキ顔、塩顔なんてカテゴリーがあることを考えればそんなことないのか。体もそういう意味ではカテゴライズされる要素の多いものであり、確かに「かけがえのない」わけではないかもしれない。金——もっと丁寧に言えば経済力や稼得能力は確かに誰がどんな方法で稼いでも同じ金なので(あぶく銭、とかいう言葉があるから必ずしも一緒ではないんだけど第三者から見たら一緒だ)「かけがえのない」ものではない。これが今のところ答えに最も近い感じがする。

では、かけがえのなさとは何か。
二人の人間がいたとする。二人とも大学生で、少し明るめのくせっ毛でぱっちり二重、左目だけ視力が0.5のため右目はガラスの細縁眼鏡をかけて、どっちかっていうと団子鼻、薄めの唇、右のうなじにほくろがある。背は165につくかつかないかで、測定のたびになぜか伸び縮みする。中肉中背、でも本人は油断するとお尻が大きくなるので食事制限を検討している。好きなものはラズベリーの乗ったショートケーキで、嫌いなものはパクチー、あとミニトマト。その他の考えうる要素が全て一緒な二人だったとする。
この二人が何の因果かある夜、お互い自分でなく相手の家にただいまぁと帰ったとする。親(だったり同居人とか、次の日大学で友人は、でもいい)はどう反応するだろう。何事もなかったかのようにその人間を受け入れるだろうか。多分そんなことはない。
それをかけがえのなさ、ひいては実存と呼ぶのである。
これを考えると、上述の言葉は、その人の実存を愛さなかったこと、実存以外に惹かれて(それを隠して)親密な関係を持ったことを責めていると考えられる。
…あっそんなこと、言われなくても知ってる?そうかぁ、でもほんとかな。
さっきも書いた通り、体(スタイル)も顔(メイクや表情、顔つき)も金なんかもっと、その人の生き様で今までのその人の結晶である場合が少なくない。それは本当にその人の実存と関係がないのか。

僕は、そうは思わない。

「体目当てだったんでしょう」というセリフは、「私の『実存に価値がなくて』実存とは違うけど価値のある“体”しか求めなかったでしょう」という意味かと思う…が、でも多分そんなことはない。体も実存も一続きで、その人の生き様で今までのその人の結晶で、どっちもかけがえがない。それはとても価値がある。なぜなら実存とはかけがえのなさだから。
ここまで書くと何となく伝わるかもしれないけど、かけがえのなさは主観だ。自分がどう思うかであり、相手がどう感じるかと実際のところ自分にとってどうなのかは全然別の問題なのだ。相手はなんか“体”にしか価値を見出さなかったけれど、それは自分の実存に価値がないなんていう絶対的な根拠ではないし、どっちにしたってそれは語義矛盾だ。だって実存はかけがえのなさ(以下略

例えば財布を盗られた時、「盗人にとっては単なる金の入れ物かもしれないがそれは大切な人の形見なんだ、金はいいから財布は返してほしい」というシチュエーションがある。これは、別に人にも当てはまる。「君にとっては単なる性欲の捌け口かもしれないがそれは私の大切な人生の入れ物なんだ、性欲はいいから私が萎えるような扱いをしないでほしい」とか。違う?うーん違ったかぁ。

とまあこういう風なわけで自分の体も顔も過去も価値は自分しか感じることができないものである。だからこそ『死にたい夜や消えたい一日、自分は無価値だと思う瞬間』がある。自分自身にそういう時があるのは、何か仕方ないところがあると実感として思うけど、それと他者が自分に感じたこととをない交ぜにするのは単純に事実と異なる。

人生において、自分をダイレクトに癒すのも苛むのも割と自分になってしまうので、『死にたい夜や消えたい一日、自分は無価値だと思う瞬間』に嵌ってしまったら、寝るなり走るなりして眠気や疲れで心身を支配する方が、この深みに支配されるより幾分マシだ。でも、疲れてても眠れない時、そもそも何も出来ない時もあるよね。ずっと歩くのは割とお勧め、夜中になればなるほど人もいなくて静かで、本当にシーンとか聞こえる、街中で。
でも解決策は人によるから、別に一晩中ネットサーフィンしたっていい。体によくないって言われてるからって止めないで、寝ることも起きることもせずずっとまとめサイト読んだっていいと思う。次の日しんどいかもしれないが、深みで過ごす夜よりマシだし。
色々書いたけど、何はともあれいいんだよ、自分以外の誰かに自分の価値なんてわかんなくったって。わかんないものなんだから。わかってもらう必要もないし、猶更それを考える必要なんてない。
自分の価値は、自分しか感じない。わからない。僕も君も。それでいいのだ。