仕方ないから生きている。
未だ感情の起伏が激しくジェットコースターのレールが天に向かって不遜に突出していたその時そのままの勢いで昇り切らなくてはならなかった、何度も試みたが結局叶わず今こうしておめおめと生き恥を晒している。
つまり、現在の孤独と苦しみはそれが未遂に終わったことの罰である。
安心しなさい、飛び降りで悲願叶わず不随となって病床に磔刑となるより全く軽い。
罰の行く先は自身のソフトランディングである。
つまりはその命の尽きるまで心身共に無暗に傷付けず、人様に迷惑をかけず、無事に身体を火葬場まで運ぶことである。それ以外にさしてすることはない。
生まれてくることは我々が選べることではない、特に意味なく生み出されており、その中には種類の違う勢いによって生成されてしまった場合も多くある。
そんな生命が巷には溢れているわけだが、では存在することに意味はないのか。
それは、ある。
人間の(もしかすると他の生物も)中には生きている意味を感じている個体が混じっている。幸福な奴らだ。とはいえ、彼らの幸福と我々の虚無は無関係である。
そういう個体と関わることで間接的に誰かの幸せの一部になることがある。
多くの人間(これは我々を含む)を生かしている共同体の構成員の一人として他の人間を生きやすくしたり、ちょっと元気にしたりできる。
人間は割と不確実性の中に生きていて、我々の小さなこの企てが何かの弾みで此方側に来そうになっている個体を向こう側に押し留めたりすることもある。
この小さな企てはほんの小さな一言一挙手一投足であり、それは別に私でなくても出来るもののように思えるかもしれないが、実はそうではない。
惻隠の情にある、井戸に落ちそうになっている幼子を助けるのは造作もないことである。しかし、世間の数多の人間の中で、今正にその場に居合わせ落下せんとする幼子に気付き、かつ手が届くのは私しかいない、ということはざらにある。
他にも、別に誰でもいいがどうしても頭数が要るということもある。世間がいい例である。
もっと規模の小さい話をしよう。
私の仕事は会計監査である。一つの上場会社を見るのに最低でも何人必要という限界がある。
その時チームの構成員になった私は別に他の誰でも代わりはきくが、ここで私が蒸発すると代わりは勿論、法人内の多くの人を少しずつ犠牲にして供出されることになるので、法人やチームにとって全くノーダメージではなく(代わりは「いくらでも」いる状態ではない)、そうならないように出来るだけ私は欠けてはならない。
これは実は世間にも同じことが言える。世間を「運営」するのにも多分最低でも何人必要という限界があり、これを下回ると今までの「世間」は維持されない。代わりは多くの人が様々な面で犠牲になることで供出されるが、それも「いくらでも」あるものではない。
つまり、世界にとって私は出来るだけ欠けてはならないし、そういう訳なので他の面子にも出来るだけ欠けてほしくない。生きてほしいし、元気でいてほしい、願わくば今年もその先もこの面子で走りたい。
なので、もしあるとすれば生きている意味とはそういう願いのことをいうと思う。