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コミュニケーションはこわくない 『劇場版ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』評

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視聴日:2021年9月27日


視聴前の期待:低
お気に入り:9
おすすめ:7
ネタバレレベル:中~高

1、はじめに

1-1、あらすじ

 父は、絵に描いたような仕事人間だった。

 60歳を迎えるまで長年に渡って商社に勤め上げ、噂では専務就任間近らしい。

 ところがその矢先、父は家族に相談もせずに仕事を突然辞めてしまう。

 彼は一体なにを考えているのだろうか。寡黙な父は、何も語ってはくれない。

 少しでも父を理解したいと思った息子は一計を案じ、父にオンラインゲームを薦めた。

 大人数が一度にログインし、ともに広大な世界を冒険するMMO――『ファイナルファンタジーXIV』。

 ゲームの中でなら、父の本音が聞けるかもしれない。

 そう考えた息子はゲームの世界で、正体を隠して父との交流を試みる。

 そこで目にする父の姿は、思いも寄らないものだった――というお話。

1-2、語り始めるその前に

 まず断っておくと、私はファイナルファンタジーの熱心なファンではない。どちらかといえば好意的な印象を持ってはいるが、これまでに触れる機会がたまたま少なく、特にこれといった思い入れはない。本作に登場するファイナルファンタジーXIVもプレイしたことがない。だから用語や世界観を誤解している可能性があるが、そこは許してほしい。

 この作品が成立するまでには実にドラマティックなストーリーがあった。この映画は実話を下敷きに作られている。本当にあった出来事、否、本当に「起こされた」出来事らしい。検索すればすぐに出てくるが、発端となった個人のブログが存在する。そこから話題が広がり、書籍化され、テレビドラマ化され、そしてドラマ版をもとに劇場版が作られた、ということらしい。らしい、というのはこの辺の事情を私は全く調べていないからで、それはなぜなら何の気もなしにアマプラで見た本作に胸を打たれたからであり、事前情報や裏の事情をなにも知らずに初めて視聴したそのときの気持ちを、今はまだ大事にしたいと考えているからである。興味がある人は調べてみるといい。むしろ本作の「真価」は、現実世界の紆余曲折と地続きに生成されてきた歴史にこそあるのだろう。実話と映画は全くの別物で、似ても似つかない装飾が施されているに違いない。それは容易に想像できる。

 けれども今は、そこには触れない。私の目にこの映画がどう映ったのか、それを語りたい。

 

 物語の主人公は父である。ストーリーを一言で表現すれば、「長い間家族と向き合うことを避けていた父が、オンラインゲーム内での交流を経験することで、家族と向き合う勇気を取り戻す物語」となるだろうか。

 息子の視点を軸にストーリーが進展するので、一見すると息子が主人公であるかに思われる。だが映画全体の構成を踏まえた上で考えると、主役は明らかに父の方である。

 本作に通底する第一の軸は家族愛だろう。父と息子は、互いの間に立ち塞がる様々な障壁を乗り越えて心を交わす。息子が父を想い、父が息子を想う、暖かく美しい親愛のヒューマンドラマである。

 しかし、この映画の魅力はそればかりではない。軸はもう一本、別に存在する。本作の肝が家族愛であるということついては、おそらくほとんどすべての視聴者が同じ感想を抱くだろう。だが私が注目したいのはそこではない。家族愛という、全面に押し出されている大きな看板の陰に隠れて見えにくくなっている柱である。だがその柱は少し見えづらい。なので今から表看板の裏側にささやかな光を当ててみようと思う。私の目にはっきりと写るその柱とは、「コミュ障」だけが見ることができる柱である。

 

 本作は、「コミュ障の父が、コミュ障を(少しだけ)克服する話」である。

 コミュ障とは、いわゆるコミュニケーション障害を持つ人々を指す語である。他人とどうつきあえばいいかわからないという消極的な理由から、他人との交わりを避けてしまう性格のことを、私たちは自虐の意をこめてそう呼んでいる。中には開き直って他人との交流を完全にアウトオブ眼中に置く猛者もいるが私はそうではない。他人を拒絶したいわけではないが、かといって積極的に人の輪に入る勇気もない、そういう臆病な人間である。日々、恐る恐る、試行錯誤を繰り返しながら人との距離を測りかねている。人間の悩みの大半は人間関係に由来すると誰かが言っていた。悩みの深さは違えども、人は皆、大なり小なり対人関係に一度は悩む。この作品はそんな迷える人々に手を差し伸べる優しさがある。

2、本論

2-1、物語のはじまり

 そろそろ本論に入ろう。その前にもう一度ストーリーの導入をおさらいしておく。

 60歳父が突然仕事を辞めるところから物語が動き始める。寡黙な父は退職した理由を家族に明かさない。もともと父との距離を縮めたいと思っていた息子はこの出来事をきっかけに、ある作戦を実行する。退職祝いとして父にファイナルファンタジーXIVをプレゼントして、遊んでもらう。ファイナルファンタジーXIVはオンラインゲームである。息子は、家庭ではなかなか心を開いてくれない父のことを、ゲームを通じて理解するために、ゲーム内で正体を隠して父と交流をはじめる、というお話だった。

2-2、ファイナルファンタジーXIV

 まずはファイナルファンタジーXIVから話を始めることにする。

 このゲームはPS4でプレイ可能なオンラインゲームである。実在するゲームであり、現在も稼働しているようだ。同一のゲーム内空間で、世界中のプレイヤーがリアルタイムで思い思いに活動をする、MMOと呼ばれるジャンルのゲームだ。父は息子からこのゲームをプレゼントされて、初めてオンラインゲームに触れることになる。

 プレイヤーは分身となるアバターを自分で作成し、好きな姿で冒険ができる。一般的なオンラインゲームと同様に、プレイヤーはアバターの呼称に本名を採用せずに、好きな名前を付ける。そのためプレイヤー本人に関する情報は基本的には伏せられており、画面の向こうで操作している人物が、実際にはどういう人物なのかはパッと見ただけではわからない。十代の少年が老人を演じたり、女性が男性を演じたり、そういうこともできる。キーボードを使えばチャットもできる。そうしてプレイヤーは、闇を滅ぼす光の戦士として、巨悪と戦ったり、他のプレイヤーと交流したり、思い思いに楽しむのだ。

 息子はこの仕組みを利用して、正体を隠して父に近づくのである。

 

 私はこのゲームを遊んだことがないので多分に推測も含まれるが、どうやらこのゲームではアバターに多種多様なポーズを取らせることができるらしい。例えば、挨拶の意を表すために片手を挙げるとか、喜びを表現するためにガッツポーズをするとか、そういったことができるようだ。加えて私たちが日頃よく目にする基本的な動作だけではなく、おどけたポーズも用意されている。大ぶりに体を動かすだけでなく、ニッコリ微笑んだり、にらみつけたりと、表情など細やかな箇所も操作し得る。もちろん選択できるモーションの数には限りが有るはずで、ゲームに実装されているモーションから選択してアバターを操作するしかない。とはいえ豊富に用意されており、制限があるとはいえ、モーションを駆使するによってプレイヤーは現実世界と同様に、他のプレイヤーたちと豊かな感情表現を交えたコミュニケーションができるように設計されている。

 映画の序盤において、ファイナルファンタジーXIVの世界における父のアバターは、挙動が実に不審である。移動するときも、ただ歩いたり走ったりすればいい場所を、なぜか無駄にジャンプを連打しながら駆け抜ける。チャットの操作方法がわからないので話しかけたい人の周囲をぐるぐる延々と回り続ける。

 そのようにしてゲームの進行に支障がでたときは、息子がこっそりと助け船をだす。息子のアドバイスをもとに、父は難を逃れる。映画の序盤はこのやりとりが繰り返される。

2-3、パーティへの参入

 映画中盤、父は息子のパーティ(サークルのようなもの)に加入する(もちろん息子の作戦通り)。そこに至っても父の挙動はへんてこである。腕の筋肉のたくましさを見せつけてるのか何なのかよくわからないポーズを付けて挨拶するし、メンバーがたむろしている部屋の中にはやっぱりジャンプして飛び込んでくる。おまけにセリフの語尾には「~ぴょん」なんて付けてしまう。

 だがよく見れば、これは父なりの成長の成果であることが見て取れる。

 父はただの変人ではない。たしかに映画の冒頭から、父は息子にとってよくわからない人物であるということは、手を替え品を替え度々繰り返し表現される。その息子の視点に立てば父はずっと変な人なのだが、ゲーム内での父の挙動は変な人の一言では片付けられない。映画のためのユニークなキャラ付け、という単純な説明でも収まらない。父はゲーム内で、ユニークなキャラを意識的に演じているのだ。

 仕事一筋で、長い間ゲームに触れてこなかった父にとってファイナルファンタジーXIVの舞台は、ほとんど全く未知の世界だった。長年のサラリーマン生活で培った常識や経験は、少なくともそのままの形では適用できない。なにしろプレイヤーは、世界を救う「光の戦士」なのだから。まわりを見れば一目瞭然で、獣人やホビット(?)などのような、現実世界で目にするよりも多種多様な見た目のアバターがそこら中を闊歩している。そんな異世界で生きていくにはどうするか? 考え方はいろいろだろうが、郷に入っては郷に従え。ひとつの回答がこれである。

 父は確かに変人で、そのこと自体は映画を通じて変わらない。だがその挙動はよく見れば、段階を経て質的に変化する。ゲームをプレイし始めた頃、父は操作の仕方もろくにわからずジャンプを連打していた。それがパーティに加入した後は、メンバーと再会できた喜びを表現するためにジャンプをするようになる。その質的な差異に、父が彼なりにファイナルファンタジーXIVの世界観に順応しようと努力する足跡が見て取れる。「~ぴょん」はとあるメンバーの口癖をそっくりそのまま真似たもので、父は真顔で「がんばるぴょん」と打鍵する。奇妙な語尾やひょうきんなモーションは、ゲーム内コミュニティに馴染むための意識的な演出なのだ。

2-4、父がファイナルファンタジーXIVをプレイする理由

 ここで一度、原点に立ち返ってみよう。父はなぜファイナルファンタジーXIVをプレイし始めたのだったか。それは退職祝いとして、PS4本体とファイナルファンタジーXIVのゲームソフトを息子から贈与されたことだった。父はゲーマーではない。どころか、PS4をテレビに接続する方法がわからずにドライバーを持ち出してしまう、そんな序盤の一幕からもわかるように、おそらくは二十年以上、テレビゲームに触れてすらいない。そんな父がなぜゲームを始め、そしてプレイし続けたのだろうか。

 それは、父がゲームを息子とのコミュニケーションツールとして認識しているからである。父はゲームの進行に行き詰まるたびに(ひどく不格好なやりかたで)息子に教えを請う。息子は息子で父と近づきたいと思っているので、聞かれれば的確に指示を出す。退職したばかりの頃は、父は息子とほとんど言葉をかわさない。正確に言えば、かわせない。それが段階を経て、少しずつ会話ができように変化してゆく。会話の中身はたいしたものではない。しかし、そもそも直接顔を合わせて会話することすら困難だった父にとっては、確実な変化が生じている。

 だがやがて、息子と会話をしたい父にとって困難が立ち塞がる。とある事情で、息子は自身がかかえる問題で手一杯になってしまい、そんな姿を見て父は息子に話しかけるのをためらうようになってしまう。一度は近づいた二人の距離はふたたび離れてしまう。

 そこで父が取った行動に注目したい。父は息子からのアドバイスをもらえない期間、攻略本を購入し、練達すべく研究をしていたのだった。久しぶりにゲームにログインした息子は父のゲーム内での成長ぶりに驚く。それほどまでに父はゲームをやりこんでいた。

 それはなぜだろうか。映画の中では、「昔から、案外のめり込んじゃう性格なのよね」的な母のセリフがある。しかし父がこのタイミングでゲームにのめり込んだのは、そのセリフだけで納得してはいけない。父は学習している。ファイナルファンタジーXIVは、現実と同じように多くのプレイヤーが同時にログインし、おのおのが各自の意志でもって活動する世界であることに対する理解を深めてゆく。現実世界と同様に、プレイヤー同士のコミュニケーションで成り立つ舞台である、と。父はもはやゲームを始めたばかりの頃のように一人で強敵に向かうような無謀な真似はしない。パーティのメンバーに自分から働きかけ、他プレイヤーとの連携による攻略を試みる。攻略本を熟読していたのは、ゲームの魅力にとりつかれ、それ以外のことを考えられなくなってしまったからでは決してない。父は攻略本を、第一に、ゲーム内でのコミュニケーションを取るためのツールとして活用している。攻略本に添付されている付箋のメモ書きに、パーティメンバーの情報が記載されていることからもそれがわかる。

 

 整理すると、まず父は、
①息子とのコミュニケーションの手段としてゲームをプレイする。それと平行して、②ゲーム内コミュニティにおけるコミュニケーションの手段として攻略本を熟読する。という二つのアクションを起こしている。両者は似ているが、質的に異なる点を見逃してはならない。この内①は、息子からの働きかけによって始まる受動的な行動であり、②は、父が、誰に言われるでもなく自ら起こした能動的な行動である。この差異が重要なのだ。

 能動的に動き始めた父は、紆余曲折を経て、最終的には息子と、そして家族と向き合う勇気を手に入れる。父が欲したものは家族とコミュニケーションをとる勇気である。それは父自身の能動的な行動によってもたらされる。大切なのは行動に移すことなのである。
 そして本作は、その行動の仕方は不器用でよいと優しく諭す。それについては別の切り口から捉え直しながら説明しようと思う。

3、違和感を覚えるかもしれない部分

3-1、「本音を言い合える場所」

 ここで視点を変えて、映画を見ていて違和感を覚える箇所から考察をしてみよう。

 本作にも、批判対象となりうる点はもちろん存在する。

 たとえばゲーム内コミュニティの治安に関する点がそれである。率直に言って、本作で描かれるゲーム内コミュニティは治安が良すぎる。一人のゲーム愛好家としての視点をもって本作を観賞すると、やはりどうしても実際のオンラインゲームの環境と比較してしまう。そうしてみると、父と息子が在籍するパーティは非常にモラルが高いプレイヤーばかりで構成される、大変に希有な存在である。私の個人的な経験に照らし合わせれば、オンラインゲームというものはもっとはるかにカオスな空間である。全体チャット欄で意味不明な独り言を喋り続けるプレイヤーがいるかと思えば、誰彼かまわず罵詈雑言を投げつけるプレイヤーもいる。出会い目的としか思えないようなプレイヤーもいれば、四方八方に思わせぶりな言動をばらいて混沌を呼び寄せるサークルクラッシャーもいる。プレイヤー全員が全員、純粋にゲームを楽しむためにログインしているなどということはあり得ない。オンラインゲームは有象無象の魑魅魍魎が跋扈するカオスな空間であり、つまるところ現実世界とほとんど何も変わらない。オンラインゲームにおいて他のプレイヤーと円滑に交流するためには、現実世界と同様の社会性が要求される。本音と建前が同居する、現実世界の映し鏡である。オンラインゲームにおいてはそれが暗黙の了解になっている、と私は思う。しかし映画では、ファイナルファンタジーXIVを「現実世界では言えない、本音をみんなと言い合える場所」として肯定的に描かれる。そこまで言うからにはそうかもしれない。そう、ファイナルファンタジーXIVならね。

 しかし、本作は決してファイナルファンタジーXIVを盲目的に美化しているわけではない。父の居場所は、家庭とゲーム内世界、基本的にはこの二つであり、父は両者を行き来する。より厳密に言えば父がパーティに加入して以降は、家庭とパーティの二つが父の居場所となる。父がもともといた場所は家庭であり、新しい活動範囲としてゲーム内世界が確立する。言い換えるとゲーム内世界は、別のコミュニティであり、文字通りの異世界である。本作においてファイナルファンタジーXIVは、「現在所属しているコミュニティに生じる問題を解消するヒントを得られる、もうひとつの別のコミュニティ」として位置づけられる。

 映画を通して、父は家庭内でのコミュニケーション不和に悩む。というと家庭崩壊待ったなしがごとき響きがあるがそうではなく、四人家族の関係性は良好である。その四人の輪の中に、父はうまく入れない。周りの三人は父を好意的に迎え入れているが、父はうまく言葉を返せない。つまり父は家庭内において社会性が欠如した人物として描かれる。その家庭に対してファイナルファンタジーXIVは、一オンラインゲームとして描かれながらも、もうひとつの重要な側面として、父が、(家庭で円滑に意思疎通をするために本来身につけておくべき)社会性を学び直せる場所として位置づけられる。そのように考えれば、本作におけるファイナルファンタジーXIVは、父にとって対人コミュニケーションの仕方を学習できる場として設計されているはずであり、モラルの高いプレイヤーばかりが描かれる設計に納得できる。加えてファイナルファンタジーXIVを指して「一人で冒険するには広すぎる、他のプレイヤーと協力して世界を救う、絆がカギとなるゲームである」という趣旨の説明もなされる。これは本作を解明するための重要な手がかりとなる見解である。父は物語の終盤でかつてない強敵に立ち向かう。その敵は、多人数の他プレイヤーとの高度な連係プレイを成功させなければ絶対に勝てない、ゲーム中最強クラスの強敵である。多人数との高度な連係プレイ、その成否を左右するものは「社会性の有無」である。そして父が克服すべき課題は「社会性の欠如」である。そしてそこで描かれる戦闘シーンは、父の社会性の有無の審判、その具現化である。

3-2、コントローラーが震える

 また、全く別の観点からの批判として、父のコントローラーの持ち方は、正直に言って気になるところである。父を演じる役者は吉田鋼太郎で、彼の演技はゲーム慣れしていない中高年男性の特徴をとてもよくとらえており素晴らしいのだが、父のコントローラーさばきはまあヘタクソである。コントローラーに触りたての頃は両腕をまっすぐ伸ばしてぐらぐらと揺らす。とはいえゲームに慣れてくる頃からそれも改善し、コントローラー自体をほとんど揺らさず、指だけを素早く動かして操作できるようになる。そのときの持ち方は全く違和感がない。しかし気になるのはやはり、強敵と戦う際の持ち方だろう。熱が入ると力んでしまうのか、安定して持てていたはずのコントローラーをぶるぶると大きく震わせながら操作する。もちろんPS4のコントローラーには振動機能が搭載されており、ゲーム内アクションに応じて振動する仕組みになってはいるのだが、それにしたって父の手は震えすぎなほど大げさに震える。それは最後の決戦に至るまで変わらない。今更振動機能のプロモーションなわけもないので演出と考えるべきだが、一見するとちょっとやりすぎに思える。臨場感と緊迫感を表現する手段として、月並みな演技のようにも捉えられる。
 だがこれは、監督や演出担当の演技指導が単純だとか、吉田鋼太郎の理解が浅薄だとか、そんな単純な話ではない。本当に素晴らしい演技である。ギャグやコメディに寄らない範囲内で、最大限にぶるぶるさせている。このぶるぶるはどのような意味を持つのだろうか。

 結論から言うと、父がコントローラーをうまく持つべきではない、というのが私の意見である。先ほど、父にとってファイナルファンタジーXIVは「もうひとつのコミュニティ」だという話をした。コントローラーはゲーム内コミュニティに参画するのに必要不可欠の道具である。父はコントローラーを介することで初めてゲームの世界にアクセスできる。ゲーム内世界において大切なのはコントローラーの操作技術であって、コントローラーの持ち方では決してない。誰がどのようにコントローラーを持っているかなど、他のプレイヤーから見えはしない。プレイヤーがいつどのボタンを押すか、どの方向にスティックを倒すかによってゲーム内のアバターの行動は決定される。アバターの「頭脳」あるいは「意識」を構成するのは、プレイヤーの頭脳や意識などではなく、コントローラーからPS4本体へと送信される電気信号である。ゲームの進行や他のプレイヤーとの交流に際して重要なのは、その電気信号がどのようなタイミングで、どのような順序で、どのような受信機に送信されるのかということであり、その結果アバターがどのような言動を実行するか、ということである。他のプレイヤーが関知できるのは、出力された行動だけでしかない。プレイヤーがどんな姿勢でどんな表情でどんな角度でコントローラーを持っているかなどということは、他のプレイヤーは一切知り得ない。この、行動として出力される以前の事情は他人に関知できない、という構造は現実世界にそっくりそのまま当てはまる。コントローラーからPS4へと送信される電気信号は、脳から身体へと送信される電気信号である。他人の脳内で何が起きているかなど、知りようがない。人の考えや心は本当の意味では理解できない、とよく言われる。その通りだと思う。

 ここで話題を振り出しに戻す。始めに私はこの映画を「コミュ障の父が、コミュ障を少しずつ克服していく話」と表現した。この視点から本作を見ると、コミュ障に悩む人、つまり他人と接したい気持ちはあるがどうしていいかわからない、そういう人にこそ向けられたエールがそこかしこにちりばめられている。父のコントローラーの持ち方もそれに数えられる。たとえば現実世界において、誰かと接する際、どれだけ重い事情を抱えていようが、どれだけ内心ビビっていようが、どれだけ思想がひねくれていようが、どれだけ性根が腐っていようが、そんなことは他人にとっては知るよしもない話である。大切なのは出力、つまり行動にこそある。行動として出力されるまでに生じる脳内プロセスは他人にとって心底どうでもいいことでしかない。コミュ障改善のための会話の練習として、ただ話しかけることそれそのものを目的として話しかけただけだとしても、相手にはその真意まではわからない。話しかけるのが恥ずかしくてもいい。話しかけられた方は、恥ずかしいのかな、となんとなくは感じるだろうが別にそれだけである。話しかけるという行動に移し、経験を少しずつ積み重ねる。コントローラーを持つ手が震えたってかまわない。それでいいのだ。安心してほしい。父が自分を変えられたのは還暦を迎えてからなのだから。そのメッセージを視覚に訴えるためには父の手はぶるぶると大げさに震えなければならない。吉田鋼太郎がボス戦でスムーズなコントローラーさばきをしてはならないのだ。ぶるぶるは計算に裏打ちされた魂の鼓動であり、不器用にゲームに向かう父の姿は、まさしく光の戦士である。

4、語り残したことを少しだけ

 本作から得られる実用的な教訓についてもう少しだけ補足する。父が息子のパーティに加入し、交流をする場面において、息子の根回しありきとはいえ、父はメンバーに無条件に歓迎されているわけではない。ゲームの世界観を父なりに咀嚼・吸収し、言動を改めていったことは既に指摘したが、それに加えて父の「礼節」を挙げたい。これは父が一貫して持ち続ける属性であり、父の礼儀正しさは視聴者に好印象を持たせる非常に大きな要因となっている。コミュ障と一口に言ってもさまざまだが、これも先ほどの「出力としての行動」と関係する。たとえ他人と交流したいと思っていても、典型的なガンコ親父のような横柄な態度を取ってしまっては、家庭でもパーティでも同じように歓迎されたかどうかはわからない。

 加えてもう一点。父は「もうひとつのコミュニティ」としてファイナルファンタジーXIVにうまい具合に順応できたが、それとは反対にまったく水に合わないパターンも十分にあり得る。その場合は、また違う別のコミュニティを探すのが良いと思われる。別のコミュニティをちょっと覗いてみて、自然体の自分を受け入れてくれるコミュニティを探す、「とりあえず試しに覗いてみる」という姿勢をこそ見習いたいと思った。

5、おわりに

 さて、ここまで思いのほか長くなってしまったが、最後に素朴な感想を述べて終わりにしよう。なんといっても冒険を締めくくる父の言葉が鳥肌モノである。そのあとに残されるのは、父にとってこの冒険がどのような価値を持つものであったのかを示唆する、味わい深い余韻である。映画の結末はきみ自身の目で確かめてほしい。