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『おジャ魔女どれみ』の正統なる後継作『魔女見習いをさがして』回顧録

おジャ魔女どれみ』の正統なる後継作『魔女見習いをさがして』回顧録


視聴日:2020年11月13日・14日(2回)


視聴前の期待:爆高
お気に入り:6
おすすめ:8
ネタバレレベル:中

1、はじめに

1-1、前書き

 本記事は2020年11月13日公開のアニメ映画『魔女見習いをさがして』(以下『魔女さが』)について記したものですが、観賞後約一年が経過した時点で執筆しています。当時のメモ書きや公式サイトなどを参照しつつ記憶を掘り起こしつつ書きましたが、映画の内容についてはシーンの前後関係や事実関係を誤認したまま書いている恐れがあります。ご了承下さい。

1-2、なぜ今書くか

 雀の糠喜び、という言葉があるらしい。
 らしい、というのは今の今まで知らなかったからだが、小学館『故事俗信ことわざ大辞典』を調べてみると「むだな喜び。雀がぬかを見て米もあると思って喜んだが、糠ばかりでがっかりするところからいう。糠喜び」と書いてある。私はてっきり、「糠に釘」の親戚で、糠に釘を刺しこんでも後すぐに釘が抜けてしまうことから来ていると思っていたが、どうやら違ったようだ。と感心してもう少し調べてみると、どうやら由来に関しては複数の説があるらしく、その説も間違いではないらしい。少々ググってみた程度ではよくわからなかった。
 ともかくこの説によれば雀は糠の奥に米が有ると期待したわけだが、この手の勝手な思い込みは往々にして落胆を生む。
 私は2020年の秋、この雀と似たような体験をした。早いものであれからもう一年が経とうとしている。記憶が完全に風化してしまわない内に、頭の中を整理しようと思う。

1-3、概観

 映画『魔女さが』の興行収入をネットで検索してみると、数字に若干のばらつきはあるものの、2.4億円とか3億円とかその辺りの数字が出てくる。コケてはいないがヒットと言うには物足りない。もちろん映画の評価は興行収入ばかりでは測れないし、2020年はコロナ禍に見舞われた年でもあり、コロナさえなければまだまだ客足を伸ばせたはずだが、『おジャ魔女どれみ』(以下『どれみ』)愛好家としては少々寂しい思いがする。
 前節でネガティブな発言をしたばかりだが、私は決してこの作品を評価していないわけではない。むしろ、表題にも書いた通り、『どれみ』の精神を「正しく」継承した、優れた作品だと考えている。しかしながらその一方で、私の観賞体験が決して心踊るものではなかったこともまた確かだ。いい映画だったけど、楽しめなかった。それが率直な感想だった。


 本記事では、私が本作を良作だと思った理由と、それでもあまり楽しめなかった理由について書き記してゆく。
 なお、今回は本作のストーリー構成や演出などを深く考察するには至らず、概説の域を出るものではない。本作の魅力を掘り下げるのは、また別の機会に行いたい。

2、良作だと思った理由

2-1、『魔女さが』のあらすじ

 まずは本作のあらすじをごく簡潔にまとめると以下のようになる。


 大学生の長瀬ソラ・会社員の吉月ミレ・フリーターの川谷レイカ、この三人が『どれみ』をきっかけに知り合い、ともに交流する中でそれぞれの悩みと向き合い、解決し、それぞれの進むべき道を見つけて歩んでゆくーーというお話。


 もう少し説明しよう。
 三人は生まれ育ちも年齢も異なっている。長瀬ソラは名古屋の大学に通う22歳、吉月ミレは帰国子女で東京住まいの27歳、川谷レイカ広島県尾道で暮らす19歳だ。TVアニメ『どれみ』の舞台「MAHO堂」のモデルと目される建築物がSNS上で話題になり、それに興味を三人が聖地巡礼に出かけた先で顔を合わせたことから物語が動き始める。そこに至るまでの三人のバックグラウンドは完全にバラバラで一切の接点はなかったが、ともに『どれみ』のファンであり、かつ希少なファングッズ(?)である「魔法玉」を各自が携帯していたことがわかり急速に意気投合を果たす。


 本作は三人の内の誰かひとりに比重を置かず、三人の出会いと成長の物語として全体像を構成する。
 三人はそれぞれに異なる悩みを抱えている。
 長瀬ソラは大学四年生で、両親に勧められるまま教員への道に進もうとしているが、本当にそれでいいのか決めきれずにいる。
 吉月ミレは優良企業に勤めているものの、社内での待遇に不満を持っている。
 川谷レイカは絵画修復士になるべく海外の専門学校への留学を目指してフリーターを続けているが、パチンコばかりしている彼氏との関係を断ち切れずにくすぶっている。
 この三者三様の問題を解消するまでの紆余曲折を描くのが、この映画の基本的なストーリーラインとなる。


 問題解決のきっかけを与えてくれるのが『どれみ』である。
 彼女たちは要所要所で『どれみ』で描かれていたエピソードを思いだし、キャラクターの行動やセリフに勇気づけられ、自身の行動を変えてゆく。やがて三人は悩みを払拭し、自身の望む未来へと前向きに進んでゆく。

2-2、評価したいポイント

 まず評価したいのはターゲットが明確である点だ。
 主要キャラクターの三人の年齢設定からしても、20代女子を主な客層として想定した作品だと推測できる(川谷レイカは物語開始時点では未成年だが作中で成人を迎える)。
 もちろん20代女子だけでなく、20代男子への気配りもあり、もう少し広めの10代後半~30代前半への訴求力もある。だが、最も「刺さる」層が20代女子であろうことは疑いない。
 加えて、社会人あるいは新社会人(またはその候補)に刺さる作りになっている。おそらく最も深く刺さる層は、「20代全般の社会人女子」だと思われる。これはさすがに異論が出ないのではないだろうか。そう思えるほど、「働く20代女子」もとい「戦う20代女子」へのエールが至る所にちりばめられている。敷き詰められていると言ってもいい。社会の荒波に毎日揉まれながらも懸命に頑張っている、そういう自覚がある方はぜひ本作『魔女さが』を見て欲しい。慌ただしい日常の中で見失っていた大切な思いを、自分の心に見つけられるだろう。

2-3、ただし…

 ただし「『どれみ』ファン」に刺さるかと言えば、そうとは言い切れない。むしろかえってネガティブな印象を与える危険性すら秘めている、と私は思う。
 なぜなら本作において『どれみ』が占めるポジションは代替可能だからである。
 長瀬ソラたち三人は『どれみ』に導かれた。互いに同じ作品を愛し、グッズを携帯し、『どれみ』を軸に関係性が構築され、そして未来が動き始める。だが、少なくともストーリー上は、『どれみ』でないアニメ作品でも同様の物語は作りうる。架空のTVアニメ作品であったとしても成立してしまう、その程度の役割しか与えられていない。
 もちろん映画はストーリーのみによって成り立つものではない。本作の大きな特徴として、『どれみ』とほぼ同一の制作スタッフならびにキャスト、という点が挙げられる。単なるIPの使い回しではなく、オリジナルスタッフ&キャストが再集結して作り上げた映画作品、というのが大きな「ウリ」である。かつて『どれみ』で声をあてていた声優陣はカメオ出演しており、誰がどの声を担当しているか、それを想像するのも楽しみ方のひとつだ。オリジナルの制作陣が手掛けた作品であるという来歴を踏まえれば『どれみ』との密接な関係性が確かにある。しかし、映画で描かれるストーリーに絞ってみれば、両者の関係性は薄いと言わざるを得ない。そして、映画の裏側、つまり制作過程を踏まえて評価する観賞者は、観賞者全体のどれくらいの割合を占めるのだろうか?
 少なくとも私は、映画の感想は、映画本編そのものの印象を元に組み立てられる。制作サイドの思惑についても、毎回毎回想像力を働かせるわけではない。多くの観客は、最終的に上映作品として完成された映画そのものを体験するために映画館に足を運ぶ。
 ゆえに、本作のストーリーにおいて『どれみ』が、目に見える形で登場しないということは、少なからぬ観客にとってネガティブな印象をもたらしたのではないだろうか。
 つまり、「戦う20代女子」には刺さるが、「戦う20代女子であり、かつ『どれみ』ファン」には必ずしも刺さらない映画になってしまった恐れがある、ということだ。


 とはいえこれは、公開以前にどれだけ『どれみ』が押し出されていたのか、その程度の強弱によって評価が変わる。それについても後ほど触れる。

3、『どれみ』の何を継承したのか?

3-1、なぜ評価するか

 話を戻す。
 私がなぜ『魔女さが』を評価したのか、その理由をもう少し説明したい。


 私は本作を『どれみ』の精神を「正しく」継承した作品である、と評価している。
 どういうことか。
 その理由に入る前に、まず、私が『どれみ』をどのように評価しているかを明らかにしておこう。

3-2、『どれみ』の精神

 『おジャ魔女どれみ』シリーズは1999年2月から2003年1月の4年間に渡って放送された、東映アニメーション制作のTVアニメ作品である。2年目からはタイトルに副題のようなものが付き、『おジャ魔女どれみ♯』『も~っと!おジャ魔女どれみ』『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』となる。ここでは順に「1期」「2期」「3期」「4期」と呼ぶ。(なお「5期」に相当するOVAも存在するが今回は扱わない。なぜなら私は5期をほとんど見ていないからである(ちなみに4期もちゃんと全部は見れてない))。


 『どれみ』の大きな特徴はその実用性にある、と私は考えている。
 実用性とは、主な視聴者たる小学生女児にとっての実用性、の意だ。


 主人公の春風どれみたちは小学生であり、3年生からスタートする。そして2期、3期と放送年度が更新するたびにどれみたちも4年生、5年生へと進級し、最終的に4期で6年生に到達する。シリーズを跨いでキャラクターの学年が上がっていく仕組みは、現実世界の視聴者(小学生女児)の成長と歩みをそろえており、視聴者が作中世界ないし人物に親しみを感じやすくデザインされている。
 そして『どれみ』は小学校生活を、否、小学生生活を生き抜くためのヒントであふれている。


 義務教育の制度の下に、6歳から12歳までの児童は小学校に通学しなければならない。小学校は1、2年間を通してクラスメイトの人員構成が大きく変動しない村社会であり、対人トラブルへの対応力の有無によって過ごしやすさが左右される。また、小学生は保護者の庇護下におかれ、経済力も社会的地位もなく、そのため自らの意志で居住環境を大きく変化させられない。小学校には小学校特有の問題があり、各家庭には各家庭に固有の問題がある。そんな小学生の悩みに寄り添ってくれるのがこの作品だ。『どれみ』はシリーズ全般にわたって、対人関係の不安を取り除くアイデアを提供してくれる。


 たとえば2期では魔法使いの赤ちゃん・ハナを育てる物語が主軸になっている。どれみ(たち)は母親として一年間ハナを守り育て、自身も人間的成長を果たす。これは視聴者の母性を開花させる側面もあっただろうが、視聴者にとっては別の意味をも持っただろうと思われる。すなわち、現実の、TVのこちら側で生じる可能性がある出来事のひとつに、「妹(ないし弟)の誕生」がある。年下の兄弟ができたらどうしたらいいだろうか? その疑問への回答を2期は用意している。作中で繰り返し問われるのは「母親とは何か」という命題であり、それももちろん重大かつ重要な問題ではあるのだが、視聴者自身が母親になる未来への心構えを諭すだけでなく、年下の兄弟の誕生というより喫緊の課題にも対応しうるポテンシャルがある。通例、小学校では、命の大切さを学ぶためには動物や昆虫の飼育を通してそれを行うが、2期ではハナというより視聴者自身(つまり人間)に近い存在を養育する。赤ちゃんとしてのハナは3期も登場し、長いスパンで視聴者は学び続けられる。そういう意味では情操教育のにも耐えうる。


 また1~4期を通して、クラスメイトとの関係性を主題とするエピソードも手厚い。特にその傾向が顕著なのは3期だと思われる。3期ではメインキャラクターとして飛鳥ももこが新規に加入する。ももこは帰国子女であり、転校当初は日本語がうまくしゃべない。そのため意思疎通に支障をきたし、様々な問題を発生させてしまうのだが、本人やどれみら周囲の努力が実り、クラスメイトらと友好関係を築いてゆく。一言で言えば異文化交流だが、コミュニケーションの基礎的な作法が丁寧に描かれている。また、あるクラスメイトに焦点を当てた話では、第二次性徴に伴う身体的変化とそれに対する戸惑いや恥ずかしさ、周囲の無理解というセンシティブな話題を扱っている。さらに別の話では学校に行けない登校拒否状態のクラスメイトにも目を向ける。故意か否かにかかわらず、心ない言動が他人を大きく傷つけてしまうという、言葉の力の負の側面を示している他、自分と異なる心身の機構を持つ他者への理解を促す視線がそこにはある。3期は全体を通して他者への理解ないし共感を促進するべく機能する。


 またこれも同じく1~4期を通じて、家庭内に生じる問題を描くエピソードにも力が入っている。クラスメイトの家庭事情を扱う話も非常に多いが、眼目はやはり主人公たるどれみたちメインキャラクターの家庭に関する話だろう。どれみたちの家庭環境をめぐるエピソードは、放送年度を跨ぎ、多くの話数をかけて、強度の高いドラマが描かれる。視聴者が各家庭に抱える事情はみなそれぞれ異なり、視聴者の数だけ問題があるのは当然だが、『どれみ』が扱う家庭のバリエーションの豊富さは並大抵のものではない。もちろん網羅はしていないが、視聴者が自身の関心に引きつけて思考する素材としては十分過ぎるほどの質と量を提供している。『どれみ』に救われた視聴者は少なくないと私は思う。


 以上、『どれみ』シリーズの特徴を概観した。
 一言でまとめると、現実の小学生生活において直面し得る、人間関係を中心とする様々な困難について、自分の頭で考えるヒントとなるアイデアをたくさん提供してくれる作品である、といえる。
 もちろん小学生をメインターゲットに据え、かつ日常生活の負の側面を描くアニメ作品は他にも存在するだろう。しかしながら私の少ない視聴経験の範囲内では、それらの多くが来たるべきカタルシスのための踏み台として、ストーリー展開の要請によって「困難」が設置されるに過ぎないように思われる。あるいは逆に過度に重々しく描く傾向があるように思われる。それに対して『どれみ』は困難を困難として、飾らずに描く誠実さがある。その傾向は、2期以降に顕著になる。1期はまだ戯画的な派手さが色濃くあるが、徐々にドラマとしての強度を両立させてゆく。
 雨降って地固まるという言葉がある。困難の後に良い結果がやってくる、というほどの言葉だが、これになぞらえると多くのアニメ作品は「どのように地を固めるか」ということに関心が向いている。もしくは、雨とはいえど台風顔負けの土砂降りか、そうでなければ槍が降る。その一方で、『どれみ』の世界には雨が降っている。ときに静かに、ときに激しく、雨が降る。雨を「無いもの」として排除せず、正面から取り扱おうとする姿勢が見える。そして傘の差し方や雨宿りの方法を、そっと教えてくれる。そんな優しさがある。


 視聴覚を刺激し、変身願望を叶えるエンターテインメント、とだけ見ては捉え損ねる奥行きがある。友情・絆・愛情といった、人間関係のポジティブな側面だけでなく、人間が抱えるネガティブな側面を、誠実に、視聴者たる小学生女児のために、ほどよい塩加減で描いている。私は『どれみ』をこのように評価している。


(注)私が2期最終話に強い拒否反応を示したのはその思いがあったためだと、振り返ればそう考えられる。2期最終話はエンタメとして非常に高いクオリティを有している一方で、現実への配慮は希薄だったように記憶している。私のたとえを用いるならば「雨が綺麗すぎた」。それゆえ『おジャ魔女どれみ♯』の最終話として評価できなかったのだろう。次に見返したときには感想が変わると思われる。

3-3、受け継いだもの

 それでは『魔女さが』は『どれみ』の何を継承したのだろうか?
 それは「友情・絆・愛情といった、人間関係のポジティブな側面だけでなく、人間が抱えるネガティブな側面を、誠実に、ほどよい塩加減で描」く姿勢である。
 そして、誰のために作られているかといえば、「働く20代女子」である。
 本作の世界観は限りなく現実世界に寄せて作られている。『どれみ』と違って「魔法界」は存在せず、「人間界」しか存在しない。描かれるドラマは非常にリアリティが高く、中には思わず目を背けたくなる生々しさもある。
 間違いなく『どれみ』の精神を受け継いでいる。
 
 私は本作を高く評価するのはこの理由による。
 
 同時に、私が本作を楽しめなかった理由もここにある。


 『どれみ』は小学生女児のために作られた。アニメファン(だけ)のために作られたわけではない。
 『魔女さが』は働く20代女子のために作られた。『どれみ』ファン(だけ)のために作られたわけではない。


 本作は、あまりに「正しく」継承した。
 そして私はと言えば、本作を見る頃にはもうすっかり『おジャ魔女どれみ』に漬かりきってしまっていたのだった。

4、『魔女さが』と『どれみ』の連結

4-1、なぜ私の期待が過度に膨らんだのか

 本章では、私が本作をあまり楽しめなかった要因について考察する。
 まず私自身の至極個人的な事情について軽く触れた後、『魔女さが』の広報を分析する。


 先に私の仮説を示すと以下のようになる。
「ある次期を境に広報の方針が転換し、広告塔として『どれみ』を強くプッシュするようになった。その結果、私を含む少なからぬ観客が『どれみ』を期待してしまった」


4-2、個人的な事情

 2019年3月23日。新作映画の制作決定を知ったとき、私は歓喜の雄叫びを上げた。
 2020年春。当初「2020年5月15日公開!」と予告された本作は、新型コロナウイルスの感染拡大という社会情勢を鑑み、公開日を約半年後の11月13日に延期を決定した。
 同年秋。私の首は長く伸び、公開日が待ちきれずにいた。私はまだ見ていなかった3期の視聴を開始した。応援の意も兼ねてカウントダウンイラストを描いてTwitter上に投稿したりもした。そうして私は、自ら期待を高めていった。
 ついに迎えた映画公開日その初日、私は伸びきった首を抱えて映画館に向かった。
 映画館から出たとき、私の首は元の長さに戻っていた。


 以上、私の身に起きたことを述べた。
 これはあくまで私個人の事情ではあるが、同様の現象は周囲の観賞者にも少なからず見られた。そこで次の分析に入る。

4-3、広報を見る

 本節では『魔女さが』の広報を分析する。
 その前にまず『魔女さが』の成り立ちを確認しておく。『魔女さが』は、1999年に放送を開始したTVアニメ『おジャ魔女どれみ』放送20周年記念事業の一環として立ち上げられ、そしてその目玉として企画された映画だった。つまり大まかな順序としては、①1999年『どれみ』放送開始、②2018年『どれみ』20周年記念プロジェクト発足、③2020年『魔女さが』公開、という流れになる。


 『魔女さが』関連情報の発信方法についても整理しておく。
 『魔女さが』の情報がウェブに公開される場合は、20周年公式サイト・『魔女さが』公式サイト・20周年公式Twitter・20周年公式Instagram、この辺りが有力な発信源となる。私が主に用いていたのは両公式サイトとTwitterなので、今回はこれらを主な分析対象とする。他には東映アニメーション公式Twitterも関連情報を発信するが、20周年公式TwitterからのRTが多く、今回は扱わない。また、『魔女さが』単独のSNSアカウントは存在が確認できない。20周年公式サイト・20周年公式Twitterは『どれみ』関連情報を広く扱い、『魔女さが』情報も包含する。『魔女さが』公式サイトはその名の通り『魔女さが』情報に特化したサイトとして役割が分担されている。


 次に、『魔女さが』が公開されるまでの出来事を簡潔にまとめておく。
 2018年12月13日、公式Twitterアカウント「【公式】おジャ魔女どれみ20周年@Doremi_staff」が最初のツイートを投稿した。以後数ヶ月にかけて『どれみ』にちなんだ関連コラボグッズやコラボショップの情報が次々と発表され、2019年3月23日に新作映画の制作決定が公表された。
 2019年10月29日、それまでティザーサイトだった映画『魔女さが』公式サイトがリニューアルオープンし、以後『魔女さが』関連情報は、20周年公式サイトおよびTwitterでも発信されるとともに、『魔女さが』公式サイト上にまとめられてゆく。
 しかし2020年、新型コロナウイルスの出現およびその感染拡大という、世界規模での大惨事が発生する。日本においても、2月、3月と時間が経つにつれ、事態の深刻さは急速に増していった。映画業界も公開を見合わせ延期する傾向が高まってゆく。そして3月19日、『魔女さが』の公開延期が公表された。公開予定日は5月15日から約半年後の11月13日に延期さた。11月13日、『魔女さが』は無事公開された。
 以上、簡単に一連の流れを整理した。
 この辺りの顛末は『魔女さが』公式サイト内の「MEDIA」および「NEWS」に記録が残されている。MEDIAはその名の通り、本作の情報が掲載されるメディアを一覧したページである。2020年4月10日の二度目の公式サイトリニューアルオープンの際に、当初NEWSに一本化されていた本作関連情報を分離独立する形でメディア掲載情報を独立させたカテゴリと思われる(当時から詳しくウォッチングしていたわけではないのでこれは憶測に過ぎないが)。


 さて、ようやく『魔女さが』広報の分析に入る。
 MEDIAとNEWSの見出しを一覧化した表を用意したのでこちらを参照しながら読んでいただきたい。

【表1】
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【表2】


 表の見方を説明しておく。
 中央の「トピックス」欄は、基本的には『魔女さが』公式サイト内、MEDIA・NEWSの各ページに記載されている表記をそのままコピペした。注意してもらいたいが、各表はあくまでトピックの告知日を記した表に過ぎない。各トピックの有効期間、たとえばイベントならばイベントの開催期間は無視している。理由は余力がないためである。有効期間を考慮すると考察の結果も変わるはずだが、後日を期したい。
 「『どれみ』要素」は、そのトピックが『どれみ』に関連する度合いを三段階に分類している。関連度が高いものは●、低いものは○、ほとんど見受けられないものは空欄にしている。なお、判定は私の独断と偏見による。
 同様に「『魔女さが』要素」は、『魔女さが』との関連度を二段階で分類した。当然ながら、表に挙げた全てのトピックはそれぞれ『魔女さが』と関連する。しかしながらその内実にはムラがある。たとえば、2020年4月28日付「映画公開記念!「おジャ魔女どれみ」コラボパン発売決定♪」のページでは、映画公開を記念して『どれみ』とコラボした食品が販売されることが告知されている。当該製品のパッケージイラストは『どれみ』を強くアピールする意匠であり、製品そのものに『魔女さが』の影はほとんど無い(念のために断っておくと、20年前のイラストの使い回しではなく、『魔女さが』関連グッズ用に新規に用意されたイラストではある)。このように、「映画公開を記念して」という枕詞を冠するものの、当該グッズ・イベントに『魔女さが』独自の要素が非常に薄い、あるいは皆無と思われるトピックについては、「『魔女さが』要素無し」と判定した。
 また「20周年サイトNEWS」欄には、20周年公式サイト内のNEWSに同様の記事が掲載されているかどうかを示した。【 】は掲載項目の下位分類を示す。掲載が確認できないものは空欄にした。
 なお本節の情報は、2021年10月20日から28日にかけて閲覧し得たものに基づく。過去に存在したが先述の期間にいたるまでに消去された可能性を考慮しないことにする。


 さて、この表を分析することで、『魔女さが』に『どれみ』がどの程度紐付けられていたのか、その変遷がある程度見えてくる。乱暴に言えば、「どれだけ『どれみ』に頼っていたのか?」がなんとなくわかるはず、と考えている。


 まず、当初の映画公開予定日だった2020年5月15日を前後に、情報の発信量が大きく増加するという点が指摘できる。【表1】【表2】の両方からその傾向が確認できる。
 【表1】によると、5月8日までは雑誌に関連情報が掲載されていたらしきことが確認できる。ところが一転、それ以降は9月11日までメディア掲載情報が更新されていない。
 4月にメディア掲載が盛んに行われたのは、当初の公開予定日の5月15日に合わせた話題作りのために広報が動いていたらしきことがわかる。3月19日に公開延期が発表(【表2】)されてからもメディア掲載され続けたのは、雑誌という媒体が取材から発行までに時間を要するメディアであるから、その分のタイムラグが生じたと思われる。
 雑誌において、取材から発行にかかる時間は普通は1ヶ月から2ヶ月程度だろうから、逆算すれば、公開延期が最終的に決定されたのも、3月19日からさほど日を遡らない時期か、あるいは19日に公開延期決定→即発表、となったのかもしれない。【表2】によれば3月11日にメインビジュアルが公開されているから、少なくとも3月11日時点では未決定であったらしいことがうかがえる。
 とはいえ内々では、見合わせムードというか「延期したほうがいいんじゃなかろうか」という声は当然あっただろうから、情報や企画の中には、5月15日公開に合わせて用意したものを11月13日公開に合わせて時期をずらして放出したものもあるに違いない。それにコロナの影響もある。撃ちたくとも先方の都合で撃てなかった弾もあるだろう。
 だが、【表1】【表2】を見る限り、5月以降、とりわけ7月から11月にかけて発信されるトピックにおいて、『どれみ』関連のものが、それ以前と比較して、単純な点数としては確実に増加していることがわかる。
 もう少し【表2】を詳しく見ていこう。
 5月15日前後に情報発信が盛んになる現象をもう少し丁寧に確認すると、発信頻度を踏まえて4月28日から6月2日までを一括りに出来そうだ。この期間に関しては、映画公開延期による空白を埋めるためにコラボを連発した、という見方も出来なくはないが、雑誌と同様、5月15日公開を見込んで雰囲気を盛り上げるべく計画していたもののリスケジュールできなかった(しなかった)トピック群、と考えるのが自然だろう。ただしその内訳は、『魔女さが』要素が薄く、大きく『どれみ』に偏っている。当の映画『魔女さが』自体が最大の『魔女さが』要素である、という本来的な情況を踏まえてなお、『どれみ』コラボに偏っている感がある。
 なぜか。
 映画公開日までは『どれみ』と『魔女さが』を結びつけ、公開日以降は一気に『どれみ』色を強化する予定だった、というのがまずは考えられる。【表2】によれば、初期の段階から『魔女さが』と『どれみ』は互いに紐づけて売り出す姿勢だったことがうかがえる。その上で、映画公開日以降に『どれみ』単独でコラボやグッズを展開してゆく方針は、『魔女さが』をすでに観賞した人にとってはうれしい展開となり得たのではないだろうか。『魔女さが』の主要登場人物の三人は、『どれみ』を媒介とした紐帯を形成する。現実世界で『どれみ』関連のイベントが増加することで、観客が同好の士を得られるチャンスも増える。それはイベントに参加することや、グッズを着用することによって実現する。『魔女さが』の三人の物語を追体験できる可能性にもつながり、『魔女さが』を観客自身の人生に引きつけて再構築する機会を提供することにもつながる。その場合、欲しいのは『魔女さが』のグッズではなく『どれみ』のグッズである。スクリーン上に描かれた『魔女さが』の物語に自己を投影する場合、仮に映画館の外で『魔女さが』のグッズばかりが目に付いてしまうと、『魔女さが』の虚構性が際立ち、かえって夢から(あるいは魔法から)醒めてしまう恐れがある。それは『魔女さが』制作陣の意図に反するはずで、長瀬レミ・吉月ミレ・川谷レイカの三人を、観客と同じ地平に立つ人間として身近に感じてもらいたいはずである。提供したいのは『魔女さが』グッズではなく、『魔女さが』体験。そう考えると、4月28日から6月2日までの『どれみ』への傾倒はむしろ理に適っている。
 ただ、それでは腑に落ちない点もある。それは20周年公式サイトとの兼ね合いである。先述の通り、20周年公式サイトは『どれみ』『魔女さが』双方の情報を扱う。運用方針に変化が見られるのが4月10日で、この日『魔女さが』公式サイトがリニューアルオープンしている。【表2】によると、この日までは『魔女さが』の情報は20周年サイトの方でもNEWS【映画情報】として告知されていたが、この日を境に【映画情報】は激減する。つまり、『魔女さが』情報はもっぱら『魔女さが』公式サイトで発信するように運用が変わったことがうかがえる。そうすると20周年公式サイトは『どれみ』情報を主に発信するはずであろう。
 ところが、よく見てみるとおかしなことが起きている。『どれみ』関連情報なのに20周年公式サイトでは扱われず、『魔女さが』公式サイトでのみ扱われるトピックがあるのだ。
 たとえば5月8日「『おジャ魔女どれみ♯ショップ』5月15日(金)からオープン! 仙台PARCOで開催決定!」、同19日「「おジャ魔女どれみ」がBS11キッズアニメ∞にて、セレクション放送スタート♪」、6月2日「「cookpad studio 魔法祭」開催決定♪ 「も~っと!おジャ魔女どれみ」の世界観を表現した限定メニューも登場!」などである。無論、両公式サイトでともに掲載されるトピックもある。4月28日「映画公開記念!「おジャ魔女どれみ」コラボパン発売決定♪」、5月19日「『ITS’DEMO×おジャ魔女どれみ』コラボ第2弾が登場! 5/26(火)よりイッツデモオンラインストアにて先行発売♪」、同21日「一番コフレに「おジャ魔女どれみ」が初登場!」などである。
 何が違うのだろうか。
 私の仮説は二つある。
 一つ目は、広報の運営がわりと大らかで、意図せず二種類の情報が混同した、という説。
 もう一つは、本来的には(=公開が延期されなければ)『魔女さが』と特別紐づける予定ではなかった『どれみ』情報を、『魔女さが』関連情報として位置づけた、という説。
不躾な言い方をすれば、『魔女さが』と無関係の『どれみ』トピックを20周年公式サイトから流用した、ということだ。
 私としては後者の説が腑に落ちる。
 『魔女さが』関連情報を増やすことは、11月までの「延命策」として有力な手段だからである。
 7月以降も『どれみ』コラボは数多い。『魔女さが』の話題性を維持するべく広報運営が精力的に行われていたことがわかる。
 さらに変化が見られるのが9月である。
 9月に入ると、それまでとは打って変わって『どれみ』が関係しない『魔女さが』の情報が増加する。8月18日に公開日が正式決定したことを受けて、広報の方針が改められた可能性がある。9月から11月にかけて、特に11月に顕著だが、20周年公式サイトでの記載がない『どれみ』情報、つまり『魔女さが』公式サイト上で独占的に掲載される情報が爆発的に増加する。【表2】に見られるこの現象からは、すべての手札を『魔女さが』のために活用しようとする広報の意志が汲み取れる。
 7月から11月にかけて実施されたコラボイベントが全て5月公開に合わせて用意されていたとは考えにくく、公開延期決定後に初めて動き出した企画も多数含まれると思われる。そしてそれらのトピックは、『どれみ』20周年記念としての意味合いよりもむしろ『魔女さが』公開記念としての意味合いを強く持つべく位置づけられたと思われる。


 以上の考察から、11月までの数ヶ月間、『魔女さが』の話題性を維持するために、知名度の高い『どれみ』が広告塔として、当初の予定以上に長期間にわたり積極的に活用された、と結論づけたい。


 しかし、これは制作サイドの本意ではなかったと私は考えている。
 今ここにソースを示すことができないが、公開以前の初期段階においては、『どれみ』世代に向けた映画ではあるが、あくまで『どれみ』とは別の作品である、という姿勢が打ち出されていたように記憶している。


 それを端的に示すのが本作の「メインビジュアル」である。

 



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【画像1】



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【画像2】

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【画像3】


(画像はいずれも公式Twitterアカウント「【公式】おジャ魔女どれみ20周年@Doremi_staff」掲載のものをお借りしました)


【画像1】は2019年3月23日に映画制作決定の告知とともに公開されたキービジュアルであり、【画像2】【画像3】は2020年3月11日・9月22日にそれぞれ公開された「メインビジュアル」である。
 【画像1】は『どれみ』のイメージを強く印象づける作りになっているものの、「おジャ魔女どれみ20周年」の文脈において公開されたキービジュアルであることに留意したい。
 公開予定日直前の2020年3月に「メインビジュアル」として公開された【画像2】は、新緑の町並みを背景に長瀬レミ・吉月ミレ・川谷レイカの3人が前面に描かれている。そしてその中央奥に、よく見ればどれみたちがいる、という作りになっている。『魔女さが』の登場キャラクターを堂々と打ち出したビジュアルに仕上がっている。
 ところが、延期決定後の2020年9月に「第2弾ビジュアル」として公開された【画像3】では、『魔女さが』の三人は存在感を薄める一方で、どれみたちの存在感が大きく増している。三点のキービジュアルの中でも最も『どれみ』の気配が色濃いイラストとなっている。
 おそらく【画像3】は、当初描かれる予定ではなかったのではないだろうか。本来は『魔女さが』の三人を看板娘として売り込んでいくつもりだったが、公開が11月へと延期され、街路樹がさわやかに青くしげる【画像2】では雰囲気が合わなくなってしまった。そこに広報戦略の方針転換が加わり、『どれみ』を強く打ち出した紅葉のMAHO堂のビジュアルが新規に用意された。こういう背景があるのではないだろうか。
 【画像2】は素晴らしいイラストであり、本来ならばこちらが『魔女さが』の顔になるはずだった。しかし【画像3】はそれを上回り、エモさ極まる逸品に仕上がった。あるいは、仕上がってしまった。
 私には、『魔女さが』のメインビジュアルの変遷は、制作サイドの広報方針の変遷を象徴するように思えてならない。

5、おわりに

 最後に、再び私の個人的な事情に言及させていただき、本稿を結びたい。
 『魔女さが』は、普段は前情報を追いかけない私としては例外的に前情報を追いかけた映画作品だった。その中で2020年5月以降に『どれみ』コラボの情報に接する機会が増え、『魔女さが』の情報を追っているのか、『どれみ』を追っているのか、途中からよくわからなくなってしまっていた。5月・6月は、映画と『どれみ』の両面で、同時並行的に盛り上げようと設計していたことがうかがえる。しかし公開が延期され、5月6月のイベントは「空打ち」になり、『どれみ』が先行して次々と露出してゆくことになった。『魔女さが』と『どれみ』の同時展開と、『どれみ』の単独先行連打とでは、受け取る側の私にとっては印象が大きく変わってしまう。そうして私の中で『魔女さが』と『どれみ』の連結が強固になり、映画に対する先入観が強化されていった。そして【画像3】に感銘を受けた私は、映画に『おジャ魔女どれみ』を期待してしまった。私は勝手に映画を規定してしまっていた。そんな姿勢では、映画をまっすぐに受け取れるはずもなかった。


 以上が私の所感である。
 なぜ『魔女さが』を評価しながらも心から楽しめなかったのか。私は私が感じたモヤモヤを解消すべく本記事を書いてきたが、その甲斐あってそれなりに解消できたと思う。私は『どれみ』の残像を追い求めすぎていたことを自覚できた。もういちど『魔女さが』を観賞する際には、また違った感想を抱けると信じている。
 本作のストーリーに関しては深く掘り下げることが出来なかったのが心残りと言えば心残りだ。気が向けば、またどこかで改めて書くかもしれない。