読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

出窓からの手記

 先日の雨で一気に冷え込んだ街を男は一人歩いている。安物の上着をいくつも重ね着しているせいで着ぶくれしていて、下半身の細さと不釣り合いで少し滑稽に見える。
 前から風が吹きつけ男の顔を冷やす。男の鼻と耳は、蒼白な顔面とは対照的に赤くなり、もう触っても何も感じなくなってしまった。
 男がこんなに早くから街を歩いているのは、普段にぎわっている目抜き通りが閑散としているのを心置きなく歩くのが好きだから、というわけではない。確かにこの男は人酔いするため、夜中や早朝に街をほっつき歩くことがあるが、今日はそれではない。
 午前四時五十分に現場に到着し前任と交代する。日の出も遅く、あと二時間以上しないと日光も拝めないこの煌々と照る人口灯のたもとで男は黙々と作業をする。冬の現場は非常にきつい。夏は暑くて意識が朦朧とすることがあるが、冬の体の芯まで吹き抜けるような風が男はどうも駄目であった。しかし日銭のためしないわけにはいかないのである。
 特に意欲的ではなく、そうといってそれほど無能ではない、中肉中背で特徴もない、この男はほどほどに器用で、ただ流されるように今まで生きてきた。
 一つ男の特徴――というには些細すぎるほどだけれど――がある。男の両手の爪は非常に短いのである。特に右手に関しては、爪の先の白い部分を、男自身一度も見たことがないほどであった。これは現場で作業するから定期的に切っているとか、衛生のために切っているとかではない。それどころか男はものぐさで爪を切るということをほとんどしないのだ。その証拠に足の爪はのび放題で、よく爪が割れて血がにじんでいるのだ。
 男には物心がつく前から緊張や苛立ちを感じると爪を噛む癖があった。それは小学二年生の時に先生に指摘され始めて認識したものなのであるが、男には止める術は見つからなかった。先生には止めたほうがいいよと軽く言われたぐらいで、両親はそのことに関して一切の口を出さないのだ。いや、爪を噛むことに関してだけではない、男は箸も正しく持てないし、歯も磨かないし、服は脱ぎっぱなしであるがそのことに対して親がたしなめたことなどなかった。ただ黙って親のような仕事を家庭内でこなしているような感じであった――これは傍からこの家庭を見たうえでの悪意のこもった比喩である。男にとってはそれが普通の家庭であったし、親も子を、また子も親を一般の家庭と同程度は好いていたのであった。ただ男の育った環境が外からよく見えるのが爪を噛むという行為であり、人に紛れると誰も認識できなくなるほどの特徴のない男の唯一特徴といえるかもしれない点であった。
 男をよく観察すると爪を噛むにもちゃんと順番があった。まず何か精神的に苦痛を感じると、右手の中指の爪を噛む、中指の爪がなくなると次は人差し指と親指を交互にかむのだ。その後は薬指、小指の順で、右手の爪がすべてなくなると左手に移行する。左手も右手と同じ順序で爪を削っていくのだ。男の気持ちが落ち着くまでには左手の小指までついぞ到達することはなく、次の機会までには右手の爪は噛めるぐらいには成長している。
 男は虫歯が多く、散々痛い思いをしたため毎日三回とまではいかないが、少なくとも三日に一回は歯を磨くようになったし、高校の同級生のまた同じく箸が正しく持てない人と一緒に、百円均一で箸の持ち方矯正グッズを買ってきて、正しい持ち方ができるようになった。二十歳の時に母親が床に臥せると、男は自分で洗濯をするようになった。自分で洗濯するようになるとどういうわけか脱ぎ散らかす癖も自然と消えていった。
 成人しても三十路を超えてもなお残り続けた幼少よりの癖は爪を噛むことだけであった。男は年を経るごとに社会的に正しいといわれるような人間に近づき続けている。もう爪を噛まなくなる日も近いのではないかと私は恐れている。その反面、この行為は男を社会の一員としての人間から、一個人としての人格を切り離している唯一のものである――少なくとも私はそう思っている――から男が死ぬまで、死ぬまでとはいかなくとも死ぬ寸前までは、止めることはないであろうという期待のような確信を持っている。
 今の私の興味はもっぱら、両手を使ってもなお男の苛立ちが収まらなかったとき、男は発狂するのか、はたまた足の爪を噛みに行くのか。しかしこれはもう発狂しているようなものである。
 しんとした道を、男を見送る。頭上には燦然とオリオン座が輝いているが男は足元ばかり見ている。私はまどろみながら男を見送る。外は木枯らしだ。