読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

TVドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」と映画「TOVE/トーベ」を観て、恋愛・婚姻関係を解消した元パートナーの関係性について考えた

はじめに

この1ヶ月に観て印象に残った実写ドラマが2つある。ひとつは今年の春クールに放送されたTVドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」(以下「まめ夫」と表記)、もうひとつは昨年フィンランドで公開され、日本では今年公開された「TOVE/トーベ」(以下「TOVE」と表記)である。この二作はともに登場人物の恋愛・婚姻関係の終焉とその前後を描いており、そして描き方の方向性も近い気がしたので、この2つを結びつけてこのテーマについて考えた。本稿ではそれをまとめたい。以下、当該テーマに関する両作品のネタバレを含むので、回避したい方はここで引き返していただいた方が良いかもしれない。まあこのブログのタイトルの時点で少しはネタバレしているけれど、このくらいはご容赦願いたい。

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各作品の登場人物と恋愛・婚姻関係

「まめ夫」

こちらはタイトルのとおり、3回結婚して離婚した主人公大豆田とわ子(演:松たか子)が、その三人の元夫たちと再会した後のとわ子と各元夫や、元夫同士と、彼らを取り巻く人々のやりとりを描いたドラマである。大豆田とわ子は建設会社「しろくまハウジング」の社長を、自分には向いていないと自覚しながら一生懸命に取り組む。一人娘の唄とともに暮らしている。一人目の元夫である田中八作(演:松田龍平)はレストランの経営者。物腰が柔らかく人当たりがいいため、モテすぎて困っている。ある人に片想いしていたが、その人は恋愛をしないと決めていた人だった。その想いを捨てられないままとわ子と結婚し、2人の間には娘が誕生したものの、やがてそれを気づいたとわ子と別れたのだった。十数年を経て、とわ子はその片思いの相手がとわ子の親友であるかごめだったことを悟る。二人目の元夫である佐藤鹿太郎(演:角田晃広)は自分のした小さな親切を周りによくアピールする、器の小さい人。とわ子とは社交ダンス教室で出会い結婚したものの、とわ子と姑との仲が悪く間を取り持つことができなかったために離婚した。当初久々に再会するとわ子に遠慮していたが、とわ子が受け入れの姿勢を見せた途端にとわ子の家でくつろぐなど、一気に遠慮のなさを見せつけた。三人目の元夫(演:岡田将生)は強がりで、論理的に(その論理はしばしば不完全だが)他人の言動を否定しがちなひねくれ者で、とわ子と離婚した現在ではしろくまハウジングの顧問弁護士を務めている。とわ子とは弁護士試験の勉強がなかなかうまく行かなかった頃に、仕事で成功しているとわ子への劣等感を拭えずに離婚するに至った。

ある日とわ子は三人の元夫に連絡を取らざるを得ない状況になり、大豆田とわ子と三人の元夫が一堂に会する。それをきっかけに三人とははからずも度々顔を合わせるようになる。2の夫と3の夫(これ以降「n人目の元夫」のことを「nの夫」と表記する)は未だにとわ子のことを引きずっており、またしばしばお互いの間で口論をしている。しかし他に新たにとわ子の交際相手になりそうな人が現れると、揃って阻止しようとする。とわ子はそんな二人と八作に、「まだ幸せになることを諦めていないし、あなたたちと再婚する意思はない」と明確に伝えるが、離婚後も共に生きている感覚はあり、恋愛感情とは異なる好意を持っていることを伝えて、三人と人付き合いを続けていくのであった。

「TOVE」

こちらはムーミンの原作者トーベ・ヤンソンの伝記映画である。戦時中の1944年前後の画家としてくすぶっていた頃から、新聞でのマンガ連載などを経て国際的な名声を得る1960年代の初め頃までを描く。劇中でトーベは1943年にスナフキンのモデルとも言われる国会議員のアトス・ヴィルタネンと出会い、アトスは既婚であったが交際を始める。また1946年にはアトスとの交際を続けながら、ブルジョワの家の娘で舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラー(彼女もまた既婚であった)との交際も始める。当時は同性愛が犯罪であったため、お互いにしか通じない暗号で愛を伝え合ったりして、その関係性がムーミンシリーズに登場するトフスランとビフスランに投影されている。

トーベは男性はアトスだけを、女性はヴィヴィカだけを愛すると言うほどに二人を愛していた。ヴィヴィカとはパリに行ってしまった後も毎日、差出人の名前を変えながら文通していたが、ヴィヴィカがパリから帰ってきたときに踊り子の女性と仲睦まじそうに現れたのを見てショックを受ける。ヴィヴィカは特に悪びれることもなかった。トーベも自由な人だったがヴィヴィカはそれ以上に自由な人だったのだろう。やがてトーベはヴィヴィカとムーミンの舞台を上演する。しかしその稽古終わりにヴィヴィカを訪ねたところで他の女性と関係を持っているところに遭遇してしまい、またショックを受ける。そうしたことが何度かあった頃にトーベは前妻と離婚したアトスからのプロポーズを受け入れるが、目覚めて物思いに耽るトーベを見たアトスは、トーベがヴィヴィカへの思いを引きずっていることを気づかずにはいられず、間もなく別れてしまう。そうして二人との恋愛関係は解消されたが、二人との友人関係は生涯続いたという。

2作を見て感じたこと

元々持っていた考え

私は恋愛関係にあった人たちがその関係を解消したとき、友人関係に戻るのは難しいだろうと思っていた。それは、相手を嫌いになるような別れ方をしたとすれば、交際前のように人間として好きな状態には戻らないだろうということ、好きなまま別れて、かつ次の人がしばらく見つからなかったときに友人関係を続けようと試みても、別れた理由を忘れてよりを戻したくなるだろうとか、元々の関係を知っていた周囲はどう接するべきなんだろうとか、その後に交際した人が出てきたときに元交際相手との関わりが続いていたらあまり愉快には思わないかもしれないとか、そういった理由からだ。こうした結果ギクシャクするのだろう。こうした考えはおそらく、自分自身が別れた人とまた仲良くするのに成功した経験がないということと、友人同士が付き合って別れた後に、二人と同時に遊ぶのは避けがちであったということと、別れた後に仲良くしている2人というのを身近で見たことが(パッと思いつく限り)ないことという、基本的に自身の経験の乏しさに基づいた理由であった。

2作は新鮮な疑似体験だった

だからこそ、この2作の登場人物は私に新鮮な疑似体験を与えた。別れた後の関係性を中心に描く「まめ夫」は、最初こそ関わりを避けていたし、いつまでも2の夫と3の夫からは未練を感じさせる言葉をかけられる。視聴していた私も、とわ子の立場に立ったら、2の夫と3の夫はなんか近づいてほしくないなと思っていた。その潮目が変わったのが2話のラストである。3の夫がとわ子とカフェでお茶をした時に、社長として悪戦苦闘するとわ子に3の夫が「頑張ってるよ。君はいつも頑張ってる。まぶしいよ。それをずっと言いたかったんだ」とただの友人以上の発言をして、それは踏み込み過ぎなんじゃないかと思っていたら、とわ子はそれが励みになる旨と、別れたけど、今でも一緒に生きていると思っている旨を伝えていた。それも別に相手が喜ぶよう気を使ってとかではなく、本心から言っているようであった。ここから、私の未知の体験が始まったのだと思う。

それからの彼らはやがて普通の友人として良好な関係を築いていく。1の夫とは別れた後の十数年間を別れずに家族であり続けていたらという話を互いにしながらも、かごめと3人集まってしまえばもう家族に戻れないと話して、これからも3人で生きていこうと互いに決意を固める。こうしたやり取りの中で時に元夫たちはそれぞれとわ子に普通の友人には言えないようなことをとわ子に度々告げるが、とわ子はそれを受け止めて、彼女にとって今の彼らがどういう存在かを伝えながら返答する。また元夫たち同士も連絡先を交換して、とわ子を介することなく2人で会うこともある程度の(友人と呼んでいいかはさておき)人間関係を築いていた。これらの行動を観る頃には、私は彼らの関係性をすんなりと受け入れられるようになっていた。

トーベは(2人の交際相手の性別が異なるという事情はあるかもしれないが)アトスにヴィヴィカの存在と関係性を明かし、アトスはそれを(結婚するまでは)受け入れていた。トーベ自身も自分と交際している時期に(まあそれ以前に自分自身も不倫関係に持ち込んでいて、しかもその場面を給仕さんに目撃されているわけだが)ヴィヴィカが他の女性と関係を持っているところに遭遇して精神的に参っているのに、その後また共同で創作活動をするくらいの良好な関係には戻っている。

不貞行為に対するハードルが下がったわけではないはずだが、後半の他のパートナーを連れているヴィヴィカをトーベが目撃する場面でやっと、ヴィヴィカとは交際をやめたほうがいいと思うよ、でも深追いしてしまう気持ちもわからなくはないよ、くらいの感情になった。この理由を言語化するのは難しいが、トーベが自己実現や自由を追求する人であって、恋愛関係の行動原理もそこに基づいているからというのと、それぞれの交際相手の配偶者がほとんど登場しなかったからだろう。実際に自分の身の回りでああいうことが起こっていれば捉え方も変わりそうだ。まあそれは今回の主題とは微妙にずれる。とにかくそうしたややこしい関係になっても(むしろややこしい関係になってもその関係を続行できる彼らだったからこそ造作もなかったかもしれないが)友人関係を続けているという結末は良いなと思った。

2作に違和感を覚えなかった理由

私が2作を鑑賞する前に抱いていた印象と、作中でそれに反することが起こっているのにわりと現実味を感じられて嫌悪感をそこまで抱かなかったのはなぜだろう。一つは周りに交際を解消したからと腫れ物に触るような人物が登場しなかったからという環境要因。もう一つは彼ら自身が常識とか規範による制約を受けることなく、それまで築かれた関係性の延長線上の行動ができていること。さらに、全員には当てはまらないが、時間が解決することもあるだろう。

おわりに

こうやって考えると、最も重要なのは元交際相手と自分(ともしいればその元交際相手の新たな交際相手)が問題にしないかどうかな気がする。元来通り素直に信頼関係を維持できるような振る舞いを見せれば、仲の良い関係に戻れるのではないか、そうすれば自然に周囲の反応もアジャストする(しない人とは距離を取ればいい)のではないか。まあ言葉で言うのは簡単でも行動に移せるかは別だし相手にもよるが、とわ子のようにただの友達に伝えるには恥ずかしいことでも受け止めて返してくれる相手なら、素直に振る舞えそうな気がする。とにかく私にそういう選択肢が加わった気がすることはこの2作によって得られた収穫である。

最後に、本稿ではこの2作の登場人物について、その関係性を読み解く行動のみに絞って説明をしたので、私がこの2作を好きになった主要因である、登場人物の魅力をほとんど伝えきれていないと思う。その魅力を感じるには是非両作品を鑑賞していただきたい。