読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

二十代の思い出

昼下がり鈍色の空が明けていく。恐らくは夏の象徴であったであろう厚い雲も晴れて、ここ一週間は急に寒くなってきた。

たまった洗濯を済ましたときにちょうど晴れたので、私はつい気分がよくなってしまった。午前中の憂鬱な気分は晴れ、やはり人はお天道さまの下でしか生きられないんだと何か人生観のようなものまで感じてしまう始末であった。

ところで私が憂鬱に思っていたのも理由がないことはない。明日で私は三十歳になるのだ。それがどうしたのかと思われるかもしれないが、それがどうもしないのが問題である。何にも追われずに、徒然なるままに過ごした日々が思い起こされて気分がすぐれないのである。

二十五になったときに、同期の輩ともうアラサーだなどと冗談のように言っていたのが昨日のようである。それから五年何をしてきただろうか。留年を繰り返した学校を追われるように卒業し、そのあとはフラフラとアルバイトで食いつないでいく日々で、ただ過ぎていくだけの日常。この年月、何かしていればどうにかなっていただろうと思わないこともない。

しかし問題の根幹はそこではない。私は、たとえ――何か魔法のようなもので――十年前に戻れたとしても、今度こそはということはなく、また無為に過ごしてしまう確信めいた予感があるのだ。

二十歳(はたち)になった私は、なんとなく日が暮れるのを見送って、二回目の二十代も何もなかったなあと十年前を懐かしむように、また何か魔法でもあるのではと少しの期待をいだく二十九最後の日を過ごすのである。

だがしかし晴れ空に臨むとそれも良いことなのではと思えてきた。所詮同じ人間がすることなんて同じに決まってる。むしろ二回目の人生だからって張り切って、思い切り違うことをするほうが嘘だ。そんなものは人ではない。人でなくちゃあね、人の人生とは歩めないのだよ。

すっかり冷たくなった風を頬に浴び、洋々と洗濯物を干し終えた。部屋でぼうとしていた意識もはっきりし、そうだ散歩に行こう。どこか高いところに登ろう。

部屋着を脱ぎ、半袖の上に上着だけひっかけて玄関を出る。アパートの階段は遥かに続き、本当に一階につくのか不安になる。だが私はコツコツと、確実に降り続ければ地面につくことを経験則で知っているのだ。

街を見下ろすビルのてっぺんは展望台で誰でもはいれるようになっている。

ランドマーク的なビルを目指し私の足取りは重かった。もう日が暮れそうである。冷たい風が意識を冴えさせるが向かい風である。一向に前へ進めない。一歩進んだ分を風で半歩押し戻される。長い道のりになりそうだ。もう日が暮れそうである。

秋の日は釣瓶落としという。朝希望に満ちて上った日も、その勢力を振るうのは一瞬で夜にすぐに覆い隠されていく。人は英雄の死を落日に例える。昼下がりにその勢力を失った最後の栄光を見たい気持ちがあるに違いない。

人生最後の夕日をビルの谷間に見るのは違う。水平性、地平線あるいは山へ沈んでいき西の空を焼き尽くすような日を見たいのだ。

赤く染まったビルにつき、ドアの前に立つが自動ドアは私を入れてくれない。後ろから家族連れが来て、ドアを開き私を中へ入れてくれた。さんざん降りた階段を次は上るのだ、しかし今回は勝手に動いてくれる。軽く息を切らしながら、次はエレベーターである。このエレベーターは――観光地のタワーは多くがそうであるように――周りがガラス張りで周囲が見える。私は高いところは好きだが、透明なエレベーターは昇っていくうちに、近くの建物に吸い込まれて倒れていくような錯覚に襲われてどうにも恐ろしい。

狭い箱の中に家族連れて乗合わせ、しかめ面をしながら頂上まで上っていく。ビルの陰で日は見えないが東の空が暗くなっている。もう日がくれそうである。完全に消えてしまう前に急いで登って落日を見届けなければならない。焦りで気がおかしくなりそうだ。今すぐにでもドアをこじ開けて行ってしまいたい。ふわっとした感覚で着いたのがわかる。

二十歳のころにはもっと景色がよかったはずであるが、再開発で周囲にはここよりも高いビルがいくつもたち平野を果てまで見渡せなくなっている。私が年老いていく間に素知らぬ顔でこのビルたちは伸びてきたのであろう。

空には薄く雲がかかり始め、日没時間午後五時五十六分には西を覆いつくしていた。ゆっくりと空が暗くなっていく。――私は思わず笑みがもれた