読み鍋屋

杓子を逃げしものや何

朝からフランスパンを食べたい

フランスパンが食べたい!!

ある冷えた冬の日、目覚めると、私はそんな思考に支配されていた。いつもより少し遅い時間の9時に自宅を出発すれば、最寄りのパン屋さんの開店に立ち会える。遅れた分だけ作業時間は短くなってしまうが、朝からバゲットをバリバリと音を立てながら胃袋のなかに流し込む幸福感は、失った作業時間を補ってあまりある能率を手に入れるだろう。そう思った私は、いつも乗る交通機関を1本見送ってパン屋さんの開店を待ち構えた。

しかしそこにバゲットの姿はなかった。私を出迎えたのは、クロワッサン、メロンパン、ジャムパン、デニッシュなどのパン屋の看板スタメン選手である。クロワッサンには多少の魅力を感じたものの、バゲットに勝る衝動は湧いてこなかった。しかしいつものコンビニや朝マックとは違う店に足を運んだ手前、ちょっと素敵なパンを買いたかった。やや熟考した末に選ばれたのは、生ハムの挟まったチャバタサンドだった。

◇ ◇ ◇

次の日、私はレンタル店で借りた漫画の返却を控えていた。10時に返せば延滞料金はかからないし、朝から開いているのでいつもの時間に作業を開始できる。そしてレンタル店の近くには朝早くから開店するパン屋さんがある。10時より前から開いている私の生活圏内のパン屋さんで、最も気に入っているのがこのお店だ。今日こそはフランスパンを食べるぞ。もしかしたらサンドもあるかもしれない。そう胸を高鳴らせながら、いつも家を出て向かう方向とは逆向きに自転車を走らせ、漫画の返却を首尾よく済ませた。

胸の高鳴りに気づかないふりをして扉を開ける。しかしそこに待ち受けていたのは、バゲットのない空間だった。心にぽっかりと空いた穴をバゲットで埋めることはかなわない、そしてその代わりになる存在はここにはいない。仕方なく私は揚げたてのカレーパンという文句に心惹かれながら、白身魚フライのサンドとミニクロワッサンを持ち帰った。

◇ ◇ ◇

パン屋さんというのはフランスパンなどのハード系のパンを焼くのを後回しにするのだろうか。朝にハード系のパンを食べられないパン屋さんはこの2軒だけでない。生活圏内でハード系のパンの評判が最も高いパン屋さんは、11時半に開店する。思えば私が大学生の頃にアルバイトしていたパン屋さんでも、ハード系のパンは昼前頃から焼き始めていた。最初に焼き上がるのは食パンと看板商品のメロンパンだった。

ハード系のパンは後回しにされやすい理由があるのだろうか。一本あたりが大きいからパンを焼く個数の時間効率が悪い?ならば小さいフランスパンを販売すれば良い。需要がない?現にここにハード系のパンが食べられなくて気が狂いそうになっている人間がいるじゃないか。窯の温度が違う?たしかハード系のパンはちょっと高めの温度設定にしていたから、他の低温で良いパンを先に焼かないと焦げ付いてしまうかもしれない。予熱を入れる過程を考えても温度が低いパンから仕上げるのが得策だ。発酵時間が長い?検索してみたらあるブログに以下のような記述を見つけた。

ハード系のパンは、小麦粉、水、塩、イーストと、基本的なシンプルな配合のパンです。

シンプルな配合の場合は、発酵がソフト系のパンよりも遅くなるので、私が働いていたパン屋さんでは発酵種を使ってつなぎを良くしてから、本こねをしていました。

出典:ハード系のパンを焼くときに、失敗しないコツやポイントを教えてください! | 竹内絢香 株式会社パンとくらし

これも確かに朝に焼きあげられない理由として理にかなっている気がする。何となく朝イチでハード系のパンを焼けない事情が見えてきた。しかしだからといって朝イチでバゲットを食べたい欲求は解消されない。

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その日の晩、趣味に没頭しすぎて夕食を作る機会を逃したまま空腹になっていた。気づいたら21時を過ぎていて、あらゆる店の閉店時間が早いこのご時世には、外で食べられる店も思い当たらない。世知辛い世の中だ。その後もあまり生産的な時間を過ごすことができないまま、自炊意欲も湧かず、コンビニで購入したQOLの低い食事を摂る気分にもならず、数日前に開封していた何粒かのおやつだけを口に放り込んで、深夜2時に床についた。

◇ ◇ ◇

3日目。胃袋を空っぽにして、寝不足気味に朝を迎えた。私は開院時間に歯医者の予約をしていた。歯医者は9時からだから、この3日間で最も遅い時間にパン屋さんに寄ることができるな。そんな事を考えながら、まずは歯のメンテナンスをしてもらいに行った。前回診察を受けてから3ヶ月間で最高の口腔環境になり、バゲットを迎える準備が整った。10時はもはや朝ではないから、バゲットが並んでいてもおかしくないだろう。過度な期待は持たずに、1日目と同じ店に向かう。やはりフランスパンはない。10時を過ぎたので向かいのデパートも開店している。デパ地下のパン屋に駆け込むも、やはりバゲットの影は見当たらない。かと言ってデパ地下の高級なパン屋さんで450円のクラブハウスサンドを買う気にはならない。

三日目ともなると、妥協して食べるかという気になるパンもだんだん減ってくる。口がハード系のパンを求めているのに、甘いパンを差し出して許してくれる訳がない。デパートを出る道中にケーキ屋さんを横切った。心の中のマリー・アントワネットが「バゲットがないならケーキを食べればいいじゃない」と囁いた。だめなんだ。他のパンでだめなのにケーキでいいはずがない。第一ケーキは固くないじゃないか。

意気消沈。いよいよフランスパンが食べられないストレスは限界を迎え、私はこの記事を書き始めた。最初の店に戻り妥協パンを探す。やっぱりどれも今の気分には合わない。カレーパンも昨日焼きたてを見送ってしまったから、焼いてから少し時間が経ったであろうカレーパンに手を伸ばす気にはなれない。と悩みながら店内を徘徊していたら、視界にバタールが飛び込んできた。バタールはバゲットよりも太いフランスパンである。パン屋さんのサイトではこう説明されている。

『中間の』という意味。中身の柔らかい部分が多いため、日本では特に人気。太い分、中身が多いので、中身が好きな方へぜひ。

出典:フランスパン バタール | ドンクのパン | ドンク - DONQ -

ちなみにバゲットの説明はこうだ。

『棒』という意味。フランスパンの代表格。薄くパリッとした皮、大小ふぞろいな気泡と光沢のある断面、口に入れると最後に充分な発酵からくるコクが感じられるのが理想です。中身より皮が好きな方へオススメです。

想定よりも存在感の大きなフランスパンに邂逅した私はしばし逡巡した。ついにフランスパンに出会うことができた、しかしいささか大きすぎる。半分とかで売ってくれないかな。そこである可能性に行きついた。バタールが店頭に並んでいるということはバゲットも厨房で焼き上がっているのではないか…?店員さんに少しの緊張を伴いながら話しかける。

バゲットはまだ時間かかりますか?」

店員さんは答えた。

「ありますよ、1本でいいですか?」

こうして3日間に及ぶバゲット探しの旅は終止符を打った。専用の長い紙袋に包まれた焼きたてほかほかのバゲットを頬張り、私は多幸感に包まれた。朝食べきれなかった分は夕食で生ハムとかチーズとかと食べるのもいいな。帰りにカルディに寄ってみようか。